福沢の漢詩「医者に贈る」2012/12/21 06:46

 福沢の内視鏡診断についての予言の話で私が思い出したのは、2001(平成13) 年に和光ホールで開催された「世紀をつらぬく福澤諭吉―没後100年記念―」 展だった。 六つに大別された展示ゾーンの一つに「サイアンス(実証科学) の視点―可能性への挑戦」というのがあって、福沢の学んだ西洋医学と物理学 が、今日の慶應義塾の医学と理工学の研究と教育につながっていることを扱っ ていた。 具体的には、理工学では「ロボット」を、医学では内視鏡下手術(腹 腔鏡下手術)を、さらにロボット研究と外科医療が結びついた「手術ロボット」 を取り上げていた。 慶應義塾や企業が作成した「手術ロボット」あるいはマ ニピュレータは、手術者が触覚を感じて操作することを目指して作られており、 「ダ・ビンチ」や「イソップ」と名付けられた実用的なロボットで手術をして いる様子が、ビデオで放映されていた。

 この展覧会のカタログに、末松誠慶應義塾大学医学部助教授の「生命科学研 究に求められる「離婁の明視と麻姑の手」とは」という一文がある。 それは 福沢諭吉の葬儀での北里柴三郎の弔辞の一部引用に始まり、信濃町キャンパス の北里講堂第一会議室にかかっている福沢の漢詩「贈医」に言われている「離 婁の明視と麻姑の手」は、今日どうあるべきかを考えている。

福沢の漢詩「贈医」というのは、こういうものだ(『福沢諭吉事典』)。

 贈医

無限輸贏天又人。

医師休道自然臣。

離婁明視麻姑手、

手段逹辺唯是真。

 【読み下し】医に贈る。/無限の輸贏(しゅえい)は天また人。医師は道(い) うを休(や)めよ自然の臣なりと。離婁(りろう)の明視と麻姑(まこ)の手 と、手段の逹する辺 唯だ是れ真なり。

 【訳】医者に贈る。/医学は自然のはたらきと人間の知恵との限りない勝ち 負けの争いである。医師は、自分は自然の臣下にすぎないなどと言ってはいけ ない。離婁(りろう)のように病巣を見ぬく鋭い眼力と、麻姑(まこ)の手が かゆいところに届くような懇切な手当で、ありとあらゆる手だてを尽して病と 闘うところに医術の真骨頂があるのだ。

 輸贏(しゅえい)…勝負。 離婁(りろう)…『広辞苑』には「離朱(りし ゅ)の別名」とあり、それを見ると「中国古伝説上の人物。百歩離れた所から でも毛の先が見えるほど視力がすぐれていたと伝えられる。」 麻姑(まこ)… 同じく「中国伝説の仙女。その爪は長く鳥の爪に似、後漢の蔡経が、これで痒 い所を掻いて貰えば愉快この上もないだろうと考えたという。」  背中を掻く道具「麻姑(まこ、マゴとも)の手」は、ここから来ているそう だ。 てっきり「孫の手」だと思っていた。