皆に篤く信頼された水上瀧太郎 ― 2012/12/29 06:30
坂上弘さんは、水上のこの不慮の死に、『三田文学』の同人が全力で編集した 臨時増刊の水上瀧太郎追悼号(昭和15(1940)年5月15日発行)によって、 水上の存在の大きさ、人と仕事の魅力が、はじめて世に知られることになった と言う。 文学と実業の二重生活、その壮絶な生き方、克己心などが、一挙に 明らかになった。 増刊号の厚さは368頁、執筆者は150名に及んだ。 三田 文学会の弔辞がすごい。 こんなに正しく生きてきた人を、これほど有為な人 材を、理不尽にも、天はもぎ取ってしまった、天は恥じないのか、と。 付き 合いのあった人は、みんな同じようなことを言っている。
坂上さんも、水上瀧太郎はいかなる苦労にもひるまず、のびのびとした、真 摯で柔軟な文体を持ち、文学者として気品があると、述べた。
水上が明治生命の取締役になった昭和8(1933)年、親友で水上の妹と結婚 して義弟でもあった小泉信三は慶應義塾の塾長になった。 坂上さんは、当時 の二人の写真を紹介した。 その小泉信三が、昭和17(1942)年『三田文学』 に寄せた「水上瀧太郎の文学と実業」を、坂上さんは『銀座復興』の「解説」 でこう書いている。 「(それは)瀧太郎のもっとも大切にした生き方におよん でいる。それは、瀧太郎の二足の草鞋をはく姿に対する、切々たる哀悼をこめ た、讃辞である。小泉は、瀧太郎の文学姿勢が、人々への信頼と、人々がおく 自分への信頼とを基礎にしていたが、それ故に中途でおわったと哭(こく)せ ざるをえない。『しかし、さらに思わなければならぬ。人と生れて、人々のかか る信頼に答えることは、優に一生を賭する事業である。この間の消息は、彼ほ どの信頼を人々からかけられた体験を持たない者の、外部から窺いしるべきこ とではない。』」
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