「海ゆかば」と信時潔2012/12/15 06:41

 10月20日土曜日の朝日新聞朝刊「赤いbe」の「うたの旅人」は、信時潔の 「海ゆかば」だった。 〈海ゆかば みづくかばね 山行かば 草むすかばね  大君のへにこそしなめ かへりみはせじ〉 万葉の歌人、大伴家持の歌に、1937 (昭和12)年、信時潔が曲をつけた。 戦時中、国が推奨し、「第二の国歌」 ともいわれて、ラジオや式典でしばしば用いられた。 私などは、戦後何とな くその旋律を聞き覚え、映像で見た神宮外苑の出陣学徒壮行会や、「海ゆかば」 の早慶戦のことを思い出す。

 「うたの旅人」の牧村健一郎記者は、「海ゆかば」のルーツが讃美歌にあった ことを尋ね当てる。 信時潔は1887(明治20)年、大阪中之島にある大阪北 教会の牧師吉岡弘毅(津山藩出身、戊辰戦争を官軍として戦い、維新後は外務 省勤務、釜山でキリスト教に出合い入信、官を辞す)の三男として生れた。 「教 会に親しんだ幼時の生活がいつしか私に洋楽への道を拓いてくれた」と回想し ているそうだが、オルガンと讃美歌とともに育つ。 父は高知教会、京都室町 教会をへて大阪北教会に戻り、潔は11歳で北教会の長老のひとり、信時義政 の養子になった。 東京音楽学校入学後も、一時、プロテスタントの団体の一 つ救世軍に入って、街頭で伝道したこともあった。 ドイツに留学して、近代 作曲法を学び、帰国後は母校で教えた。 阪田寛夫(1925~2005)に信時潔を テーマにした小説『海道東征』(講談社文芸文庫の短編集『うるわしきあさも』 所収)があり、「戦争が始まった頃、いつのまにか聞えてきた信時の新しい曲(「海 ゆかば」)は、私には讃美歌のように聞えた」とあるそうだ。

 「海ゆかば」は、ラジオ放送用の曲として生れた。 信時潔は日本放送協会 から、首相か大臣かの「おえら方」の放送の前に「聴取者の気分を整えるため に何か歌がほしい」と依頼されたという。 その楽譜が「国民唱歌」として全 国の小学校に配られ、大政翼賛会が意識高揚に向け式典などで歌うよう強力に 指導した。 音楽が国策に利用される時代だった。 潜航艇でハワイの真珠湾 をめざした特別攻撃隊(九軍神)の戦死報道の放送(1942(昭和17)年3月) 報道のあたりから、鎮魂歌として「特別扱い」されるようになり、敗色が濃く なるにつれ、いっそうその意味合いが深くなった。 孫で信時潔研究家の信時 裕子さんは「本来の目的と違って、鎮魂歌として歌われたのは本人も不本意だ ったようです。この歌は時代の空気にあったのでしょう」と指摘したという。

 大阪市北区中之島の大阪北教会は2007(平成19)年の再開発のあおりで建 て替え、50メートルほど東に移転したというが、その北側、堂島川の対岸(福 島区になる)には朝日放送の本社ビルがあり、その脇には、福沢諭吉生誕の地 の記念碑がある。 福沢は天保5年12月12日(陽暦では1834年でなく、1835 年1月10日に当る)玉江橋北詰の中津藩蔵屋敷で生まれた。 高校3年生だ った私が福沢生誕125年記念式典で、初めてその地に行った1960(昭和35) 年1月10日には、大阪大学医学部附属病院前に記念碑があり、産湯の井戸が 病院内にあった。 その病院跡地に今、朝日放送ビルと隣接のリバーレジデン ス堂島が建っているわけだが、後者には2008(平成20)年慶應義塾の大阪リ バーサイドキャンパスが開設された。 対岸で生まれた信時潔が、慶應義塾の 「塾歌」を作曲したのは面白い。