「二階建作家」で、実業と「二足の草鞋」 ― 2012/12/28 07:42
坂上弘さんは、「新聞記者を憎むの記」による明快な反論で、水上瀧太郎、二 足の草鞋を履く近代作家が誕生したという。 「新聞記者を憎むの記」でその 形式がスタートした「貝殻追放」と名付けてくくられる、200編以上ある自由 闊達な正義感あふれるエッセイ群を、作家の日記として執筆する姿勢は、のび のびとした一筋の道であり、詩歌・小説・戯曲などの作品は、その道の上に建 てられた洗練された建物であった、とする。 水上瀧太郎は「二階建作家」だ った、と。
帰国後、明治生命に入り、大正6(1917)年から8(1919)年まで大阪に勤 務、この経験は後に「大阪の宿」「大阪」に描かれる。 書きながら、勤める生 活に、脂が乗ってくる。 「大阪の宿」(大正14(1925)年)などで、中産階 級が出来上がりつつある時代に、関東大震災以降の不安みなぎる勤め人の世界 を描いて、売れっ子の小説家になった。
一方、永井荷風が7、8年で去った『三田文学』は、沢木梢(四方吉)を主 幹に続けられていたが、次第に衰退、大正14(1925)年3月で休刊となる。 大正14年12月、泉鏡花が「元禄屋敷」と名付けた麹町の水上邸で「水曜会」 が始まり、復刊を協議し、「慶應だけでない公の器、新人の独立」をポリシーに、 大正15(1926)年4月号から復刊を実現したのは、水上瀧太郎の大仕事だっ た。 この間の事情は「『三田文学』の復活」(『貝殻追放 抄』)にあるが、その 最後に「母校のために多大の犠牲を払って『三田文学』を守(り)育ててゆく 事は、福沢大先生の為残された仕事の一つだと思っている」とある。 この一 節を、坂上弘さんはずっと考えてきて、福沢と先輩たちが「文明とは何か」を 論じ合い、進めてきた、それと同じことをやろうというのではないか、と語っ たが、岩波文庫『銀座復興』の「解説」には、こう書いている。 「瀧太郎は 実業と文学を自分の人格の中でひとつのこととしていた。明治日本の起業の一 つであった父の仕事をひきうけ、文学も両立させようと決めたのは、大学を卒 業後アメリカとヨーロッパに留学中の頃だった。自分は慶應義塾子飼いの者で あり、『三田文学』の発展は福澤先生の仕残した仕事と述べていて、さながら福 澤精神の継承のように文学のことを考えていた。」
昭和8(1933)年2月明治生命取締役となり、12月号に「編集委員隠居の辞」 を書く。 水上瀧太郎は、反自然主義の旗手であり、久保田万太郎命名すると ころの『三田文学』の「精神的主幹」であった。 昭和10年常務になり、昭 和15(1940)年3月、筆頭専務として会社講堂での女子社員の会で挨拶をし ている時に脳溢血で倒れ、満52歳で亡くなる。
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