井上馨、福沢に国会開設と議院内閣制を約束2020/10/28 08:16

 井上馨が福沢を保守的に見すぎ、福沢諭吉が井上を開明的に見すぎた、双方の過大評価の結果生じた両者の接近と離反は、その結果として「明治14(1881)年の政変」を生じる。 その経緯は、政変直後に福沢が井上馨と伊藤博文に送った手紙で知ることができる(『福沢諭吉全集』第17巻471-480頁)。 坂野潤治さんは、長文の手紙をこう要約する。

 ロンドン滞在中に井上馨の知遇を得た中上川彦次郎は、井上が帰国して外務卿に就任すると、その下で外務省の公信局長の職に就く。 その中上川が井上の使いとして恩師の福沢を訪ね、政府系新聞の責任者になってほしいという井上の依頼を伝えた。 福沢が創刊の趣意書のようなものを見たうえで考えると回答すると、井上はいっそ会ってみようと答える。 その結果1880(明治13)年12月24日か25日に、参議大隈重信邸で会うことになり、中上川の案内で行ってみると、そこには伊藤博文も来ていた。

 その席で、井上、大隈、伊藤が口をそろえて福沢に新聞の責任者になってほしいと依頼したけれど、福沢は即答を避ける。 熟考のうえ福沢は、「今の政府の政体にて今の内閣を今のままに維持するが為めに政府の真意のあるところを世上に知らしめんとするの新聞紙」ならば「断じてこれを謝絶」する決心を固めて、翌1881(明治14)年1月に井上馨邸を訪問してその旨を伝えた。

 すると井上は真顔になって、「しからばすなわち打明け申さん、政府は国会を開くの意なり」と述べる。 井上は語を継いで、「この度吾輩において国会開設と意を決したる上は、いささかも一身の地位を愛惜するの念はない。たとえいかなる政党が進出するも、民心の多数を得たる者へは、もっとも尋常に政府を譲り渡さんと覚悟を定めたり」と述べた。

 井上はさらに加えて、「すべてこの度の事は伊藤、大隈の二氏と謀って固く契約したのであるから、万々変わることはない。かく大事を打明けて申すからには、三参議は決して福沢を売らない、福沢もまた三氏を欺くべからず。(中略)もしこれに疑念があるなら大隈に面会して確認すれば、さらにその実証を得られるであろう。自分は生まれてから今日まで、このような大事について違約などしたことはない。」

 この井上の話に福沢は感動したようだ。 彼は井上に、「これほどのご決心とは露知らざりし、かくては明治政府の幸福、わが日本国も万々歳なり。(中略)諭吉ももとより国のために一臂(いっぴ)を振るわん」と政府系新聞の責任者になることを承諾している。

 要談を終わった後での雑談で、もっとはっきり、二人は議員内閣制について同意した。 国会開設後の有様を想像して、政党はこう分かれるだろう、その人物は誰彼で、あの人は外務卿、内務卿になるだろう、井上君は一時落路の人となるが、一人の国会議員として外交について前外務卿として政府を追及するのも面白いなどと、「両人対話、歓を尽くして告別。」