杉山龍丸さんの、もう「一つの悲しみ」2021/09/04 07:09

 8月18日の朝日新聞「天声人語」に、日本陸軍の軍人だった杉山龍丸(たつまる)さんが、戦後、復員の事務に就いていて、留守家族に夫や息子の戦死を伝える苦しい仕事をしていた話があった。 ある日小学2年の女の子がやってきて、病気の祖父母に代わり、父親のことを聞きたいという。 フィリピンでの戦死を伝えると、女の子は涙をこらえながら、こう言った。 戦死した状況を紙に書いてほしい。 祖父からそういわれてきたのだと。

 「あたし、おじいちゃまに、いわれたの、泣いてはいけないって」「あたし、いもうとが二人いるのよ。おかあさんも、しんだの。だから、あたしが、しっかりしなくては、ならないんだって。あたしは、泣いてはいけないんだって」

 私も感動して読んだけれど、しっかりした子なのだろうが、「小学2年」というのはちょっと幼すぎる、とチラッと思った。

 昨年11月の「等々力短信」1137号「心の中で「ブラボー!」」の、天満敦子・岡田博美デュオ・リサイタルにお招き頂いた藤原一枝先生から、メールがあり、「天声人語」が取り上げた杉山龍丸さんの「二つの悲しみ」の全文を送って下さった。 光村図書刊『中学三年・国語』という教科書に載っているのだという。

 少女の話とは別の、もう「一つの悲しみ」は、こういうものだった。 ずんぐり太った、立派な服装の紳士が、隣のニューギニア派遣担当の同僚のところに来た。 息子の名前を言ってたずねる。 帳簿をめくって同僚は、「あなたの息子さんは、ニューギニアのホーランジャで戦死されておられます。」と言った。 その人は、瞬間、目をかっと開き、口をぴくっと震わして、黙って立っていたが、くるっと向きを変えて帰っていかれた。 同僚はしばらくしてパタンと帳簿を閉じ、頭を抱えた。 わたしは黙って便所に立った。 階段のところに来たとき、さっきの人が階段の曲がり角の踊り場の隅の暗がりに、白いパナマ帽を顔に当てて、壁板にもたれるように立っていた。 瞬間、わたしは気分が悪いのかと思い、声をかけようとして足を一段階段に下ろした。 そのとき、その人の肩がブルブル震え、足元にしたたり落ちた水滴のたまりがあるのに気づいた。

 その水滴は、パナマ帽から溢れ、滴り落ちていた。 肩の震えは、声を上げたいのを必死にこらえているものであった。 どれだけたったかわからないが、わたしはそっと自分の部屋に引き返した。

コメント

_ 藤原一枝 ― 2021/09/06 21:10

 出典をきちんとお書きになるのが、馬場さんですね。わざわざスミマセン。友人の一人(フジワラ)が、「その高校の同級生で、明治大文学部名誉教授から送ってもらったのを、さらに皆に廻そう」とお送りしたのです。この一文で、戦災孤児や傷痍軍人や困窮の日々を思い出したという反響も多くありました。その反響が届く度に、馬場さんが教えてくださったNHKの報道内容も送りました。そこでまた、「戦後の意志的な生き方」のことで、盛り上がり、「馬場さんさまさま」の時間を長く愉しませていただきました。
 福岡の友人からは、地元の名士という話も来ました。
 そして、この文章と、,亡くなった弟を荼毘に付す直立の小学生の兄の一枚の写真は、セットのように思い出されると言う人が複数ありました。
 コロナでも五輪でもなく、今年の8月は戦後の記憶を、同年代で話しました。その中には、戦死した子どもをもつ叔母が、街角の傷痍軍人の持つ皿に、いつも幾ばくかの金を入れていたけれど、その叔母に、「決して聞いてはいけない話があるように思っていた」というものもありましたね・・・・。いや、戦争にまつわる話は、誰しも全ては語れないでしょうが。
 まとまらない話をしました。
 明日を楽しみにしています。

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