小幡甚三郎と独立の気力「往け涯なきこの道を」 ― 2021/10/16 07:00
富田正文は、『三田評論』昭和16(1941)年2月号に綴じ込まれた塾歌の歌詞の裏面に「塾歌に就て」と題し、「此の塾歌は、慶應義塾の歴史の誇りと、我が学風と、塾の徽章の光輝とを謳ったものである」として、一番、二番、三番についてそれぞれ説明している。
一番「見よ風に鳴る我が旗を」の「旗」、二番「わが手に執れる炬火(かがりび)」の「炬火」が、慶應4年5月15日上野彰義隊の戦争の日も、福沢諭吉はウェーランド経済書を講述していたという、慶應義塾の洋学の旗、四面暗黒の世の中に独り点じた文明の炬火だったことは、10月3日、4日の当日記に書いた。 この「旗」を、富田は「日本文明の旗じるし」と要約した。
さらに山内慶太さんの論考は、二番の「往け涯(かぎり)なきこの道を」と、小幡甚三郎の関係に触れている。 小幡甚三郎(元は仁三郎)は、福沢が元治元(1864)年、中津に帰省した折に、将来の塾の柱となることを期待して見出し連れてきた6人の門弟の一人で、共に出てきて後に福沢のよき女房役となった篤次郎の弟である。 甚三郎は、草創期の義塾で、実務に優れ、芝新銭座から三田への移転などで大きな働きをしただけでなく、乱雑無規律な書生風だった塾内の風儀を改めることにも貢献したという。 その才能が期待されて明治4(1871)年、旧中津藩主奥平昌邁(まさゆき)の留学に随行する形で渡米留学するが、惜しくも明治6(1873)年1月フィラデルフィアで客死した。 福沢の悲嘆は大きく、後に明治15(1882)年3月7日付時事新報に「故社員の一言今尚精神」を書いた。
彰義隊の戦争の前、官軍が西から攻めてきて、明日にも江戸市中が戦乱に巻き込まれようという時、洋学者の中には、官軍も外国人と事を構えることは好まないに違いないと、横浜の居留地に逃げる者、仮に西洋の籍に入ったり、外国公館の使用人であるという証明書を貰って、身を護ろうとする者がいた。 塾にも、親切心で、アメリカ公館の雇い人の証明を手配してくれると申し出る人がいた。 その時、小幡甚三郎が、こう演説した。 東軍と西軍が戦うとしても、日本国内の戦争、内乱だ、我輩は文を事として戦争に関りはないが、「内外の分は未だ之を忘れず」、やって来て我輩に害を加えようとする者があれば、「よく之を防がん、之を防て力足らざるときは唯一死あるのみ、堂々たる日本国人にして報国の大義を忘れ、外人の庇護の下に苟(いやしく)も免れんより、寧(むし)ろ同国人の刃(やいば)に死せんのみ、我輩が共にこの義塾を創立して共に苦学するその目的は何処(いずこ)に在りや、日本人にして外国の書を読み、一身の独立を謀(はかり)てその趣旨を一国に及ぼし、以て我国権を皇張するの一点にあるのみ、然るを今にしてこの大義を顧みざるが如きは初(はじめ)より目的を誤るものと云うべし、我義塾の命脈を絶つものと云うべし」と。
福沢は、この故事を重んじ、『福澤全集緒言』でも詳しく紹介して、「当時小幡仁三郎氏の一言は文明独立士人の亀鑑なりとて永く塾中に伝えて之を忘るゝ者なし」と書いている。
富田正文は歌詞の説明で「慶應義塾の学問は、其の最後の目標を我が国権の皇張の一点に据えて曾て動変したることなく」と述べているが、山内さんはこれが「故社員の一言今尚精神」に由来することは明らかだとする。 そして「国権の皇張」は日本の独立を意味し、「報国致死」とはたとえ命にかかわるとしても独立の誇りを喪うような覚悟を言うのだということも、了解される筈だという。
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