クイズ「この文章読めますか?」 ― 2021/11/01 07:06
テレビのニュースで、英語のアナグラム(言葉の綴りの順番を変えて別の語や文を作る遊び)のような、遊び心のある看板についてやっていた。 見上げている人たちは、何が書いてあるのかと少し考えて、分かるとニヤリとしている。 そこで真似して、クイズ「この文章読めますか?」を作ってみた。 答は、また明日。
1. よひのじんう
2. そんどくつじり
3. ごろうのきんしがありせんま
4. さえするおさたちばにものあるとしてもうしたいわけないへん
5. といべんげんじょういちてっまんぱいにん
クイズ「この文章読めますか?」の「こえた」でなく「答」 ― 2021/11/02 07:02
〇問題
1. よひのじんう
2. そんどくつじり
3. ごろうのきんしがありせんま
4. さえするおさたちばにものあるとしてもうしたいわけないへん
5. といべんげんじょういちてっまんぱいにん
〇「こえた」でなく「答」
1. ひのようじん 火の用心
2. どくりつじそん 独立自尊
3. ろうごのしきんがありません 老後の資金がありません
4. おささえするたちばにものとしてたいへんもうしわけない
御支えする立場にある者として大変申し訳ない
5. いべんとじょうげんいちまんにんてっぱい
イベント上限一万人撤廃
吉田善彦の淡く柔らかな絵に魅入る ― 2021/11/03 06:54
今日は文化の日である。 新規の感染者数が驚くほど少なくなって、そろそろどこかに出かけたいと思っていたら、『日曜美術館』の「アートシーン」で山種美術館の吉田善彦のきれいな絵を見た。 吉田善彦、恥ずかしながら、知らなかった。 「速水御舟と吉田善彦―師弟による超絶技巧の競演―」(11月7日まで)。 入館日時を予約できるオンラインチケットをもとめて出かけた。 山種美術館、いつもは恵比寿から歩くのだが、渋谷まで行って日赤医療センター行の学バスで、「東4丁目」まで行った。 出出しは渋滞していたが、常盤松の常陸宮邸(昔の東宮仮御所)、青山学院初等部、広尾にいた頃に息子のお宮参りをした氷川神社、國學院大學など懐かしい所を通った。
山種美術館自慢の宝、速水御舟は置いておいて、吉田善彦(1912(大正元)年-2001(平成13)年)である。 17歳で親戚の御舟に弟子入りして、日本画の基礎や作画姿勢を6年間学んだ後、戦中・戦後は法隆寺金堂壁画の模写事業に参加した。 これらの経験を通じて、吉田善彦は古画の風化した美しさに強い関心を抱き、それに近づくべく、独自の技法の開発に挑んでゆく。
《桂垣》(1960(昭和35)年)、《大仏殿春雪》(1969(昭和44)年)、《尾瀬三趣 草原の朝・池塘の晝・水辺の夕》(1974(昭和49)年)、《春雪妙義》(1978(昭和53)年)、《春暁阿蘇》(1980(昭和55)年)、大作のどれもが、朦朧体というのか、淡い中間色で、息を吞む美しさだ。
桂離宮の生垣を描いた屏風《桂垣》だが、この垣根、実は裏側に建仁寺垣があり、その垣に敷地内に生えている淡竹をそのまま引っ張り倒す形で、竹の裏を固定する設えになっているものだそうだ。 左隻は一面の淡竹の葉、右隻は垣根で最上部に淡竹の葉が見える。 「アートシーン」では、この画家の転換点になった作品《桂垣》について、その技法を再現する試みをしていた。 垣根の隙間の部分だ。 和紙(もみ紙(がみ)らしい)を貼った板に、薄い金箔を貼る、その上に和紙を置いて、竹べらなどで擦る。 余分な金箔を刷毛で除くと、金色の線が現れる。 吉田善彦は、その上に色を塗ることで、絵の中に金の輝きを忍ばせた。 すると、内側から柔らかく発光したように、後光が射しているように見えるのだ。
淡く、柔らかな光を含んだ色彩と、時代によって風化した美しさを、自分の画面の中に閉じ込めようと、吉田善彦が自ら生み出した、このオリジナルな技法は、後に「吉田様式」と呼ばれることになったという。
小説の中で、作者池澤夏樹さんが誕生 ― 2021/11/04 06:57
「ダンジタンジヤウ」ボシトモニケンカウ」ナツキトナヅク」タケヒコ」
その後、武彦から手紙が来る。 「伯父上、伯母上、我が従兄妹(いとこ)たち、みなさま息災でいらっしゃいますか。/この七月七日、七夕の日に帯広協会病院で澄が無事に出産しました。男の子でした。母子ともに元気です。/夏樹と命名しました。/僕も澄も詩人ですから、名前はずいぶん考えました。/僕は女の子なら春菜と思っていたのですが、女の子ではないし春でもない。」
池澤夏樹さんの誕生と福永姓でない事情は、池澤夏樹・池澤春菜著『ぜんぶ本の話』を読んで、<小人閑居日記 2021.1.31.>の「結城昌治、サナトリウム、実の父親は福永武彦だった」に書いた。 「原條あき子」の本名は山下澄。 9月末の『また会う日まで』、1944(昭和19)年の夏の終わり、武彦が許嫁の山下澄を連れて挨拶に来た。 武彦が前の年にアテネ・フランセでフランス語を教えていた時の生徒で、詩の才能がある。 日本女子大の英文科に籍があるが、勤労動員で日本赤十字社の外事課で英語の文書を作っている。
『また会う日まで』の10月29日の第440回、武彦からの手紙には、妻にして母となった澄の詩「なつきへ」が同封されていた。
ごらん なつき 空の向こう
ぽつかり 浮かぶ 雲のお家
眠りの朝 消えた 星へ
風に 乗つて いつか 行こう
ごらん 草の 葉つぱ 揺れて
ひとり はねる 山羊の 子ども
とんがり あたま まひる 鳩も
白い 夢に 胸毛 とけて
お聞き ね ほら 鐘が 鳴れば
光り さやぐ ポプラ 並木
蟬の うす翅 銀に 響き
野萩 笑う 秋を 待てば
夕べ 沈む 花輪に 暮れ
なつき おまえの 日を 飾る
愛の 天使 明日を 祈る
みんな はやく 夜に かくれ
日本語でも韻を踏んでいる。 行の終わりの母音を揃える。 最後の聯だと、「暮れ」と「かくれ」、「飾る」と「祈る」を重ねて響かせる。 と、武彦さんに聞いたと、秋吉利雄の妻ヨ子(よね)が言う。
「大東亜中央病院」の日野原重明先生 ― 2021/11/05 07:17
6月4日の「身近な地名、芝白金三光町、戸越、九品仏」に書いたように、池澤夏樹さんの『また会う日まで』で、昭和9年、益田ヨ子(よね)との再婚が決まり、秋吉利雄がヨ子を子供たち、文彦と洋子に会わせることにしたのは、九品仏の自宅だった。 私が今、住んでいる近くで、わが家を挟んで、ちょうど反対側の玉川田園調布に、日野原重明さんが亡くなるまで住んでおられた。
『また会う日まで』10月3日の第415回、秋吉利雄は築地の水路部へ行く途中で、聖路加病院の日野原重明先生と会う。 「日野原先生」 「おや、秋吉さん。海軍少将が徒歩でご出勤ですか」 聖路加病院はアメリカの聖公会が作ったところだから、秋吉家のかかりつけ、なじみの入院先だ。 文彦も宣雄もここで手厚い看護の果てに天に旅立った。 日野原先生は、秋吉より二十歳ほど下だが、秋吉はこの人を心から信頼している。 聖路加病院、昭和20年の今は大東亜中央病院と名が変わっていて、屋根の十字架も取り外された。
立ち話が長くなる。 病院内で使う言葉も英語が禁止された。 アメリカの医療をそのまま導入し、医師や職員にアメリカ人は多く、用語ももっぱら英語が使われていた。 カルテはドイツ語だが、ここでは英語でチャートと呼んでいた。 アメリカ人の医師や職員は帰国を余儀なくされた。 ベイスンと言いかけて洗面器と言い直す、ピッチャーを湯おけ、リネンルームは材料室、スプーンはしゃもじ、ポケットはかくし。 みんな言い間違えを笑いながら使っているが、どこで誰が聞き耳を立てているかわからない。 「他の人には言えませんけれど秋吉さんになら言えることがあります。日本はこんなに多くをアメリカに学びながら(なぜ)あの国を相手に戦争を始めたのでしょう?」 「わたしにはわからない」 「私は医学しか知りませんがあちらは何十歩も先へ行っていますよ。感染症に対してペニシリンという画期的な薬があるらしいのです」 「碧素(へきそ)でしょう。噂は聞いている」
「わかっていても作れない。産業の規模が違うからだと私は思います。関東大震災の時、聖路加を創設されたトイスラー先生はたまたまアメリカに帰っておられた。病院は焼けてしまいました。で、あちらで親しかったアメリカ陸軍省のパーシング将軍という方に働きかけて支援を頼みました。震災の三週間後にトイスラー先生が帰国した時、アメリカ陸軍の部隊がもう何十ものテントを連ねて臨時の病院を作っていました。ベッドが二百二十五床という立派なもので、検査機械も薬剤も一通り揃っていたと聞きました。『米国政府医療庁野戦病院』という名でした」 「産業が足りない分を精神力で補う。科学者として言えば無理な話です」
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