東京大空襲の朝、聖路加病院の日野原先生2021/11/06 07:00

 池澤夏樹さんの『また会う日まで』、昭和20年3月10日未明の東京大空襲の朝、秋吉利雄は築地の水路部が心配で見に行く。 九品仏からの大井町線は動いていた。 省線も品川までは動いているという。 電車は休み休みながら品川の先、田町を越えて浜松町まで進んだ。 ここからなら歩いて行けると、ホームに降りると同時に物の焼けた臭い、焦げた臭いが強く迫った。

 汐留駅のところまで行って驚いた。 物資を貯蔵した一角がまだ盛んに燃えている。 鉄道で東京に来る物資の多く、都民の生活の資は、ひとまずここに集積される。 感心したのは爆撃の狙いが正確であること。 この区画にきっちり集中していて周囲には被害がほとんどない。

 水路部の本庁舎、第一印刷工場、修技場、原版庫は無事だったが、その他の建物には多かれ少なかれ被害があり、怪我人は幸い三名ほどの軽傷者で済んだ。

 帰りがけ、すぐ近くの聖路加病院に行った。 想像以上の大混乱だった。 チャペル前のロビー、地下室、女子専門学校の体育館、そして廊下までベニヤ板を置いて布団を敷いて負傷者を寝かせている。 何百人いるだろう。 (地下鉄サリン事件の時の、聖路加国際病院の映像を思い出す。)

 声をかけられて、担架を運んだり、しばらく手伝いをしていると、「秋吉さんではないですか!」と日野原先生、困憊(こんぱい)のかぎりで、しかしまだまだ働くという顔だ。 「よく来てくださった、あなたにこそ会いたかった」と、しがみついてくる。 「どうしたのです?」 「罪を犯しました。いや、犯しつつあります。怪我人を選別しているのです。助かる見込みのない者は放置する。死ぬにまかせる。信徒として許されないことです」 そう言うと彼はわたしに抱きついたままおうおうと泣き出した。

 「救える者を救うのは医者としての合理のふるまいです。あとはすべて主が見て下さる。信徒であってもなくても善きところへ導いて下さる」 「そうですね」と彼は少し落ち着いて言った。 「ここであなたに会えてよかった。他の誰にも言えないことなのです」

聖路加病院は「米国より日本への賜物」ビラ2021/11/07 07:37

 『また会う日まで』、5月の末、秋吉利雄へ日野原先生から手紙が来た。 アメリカ軍が空から撒いた一枚の伝単すなわちビラが同封されていた。 表には「米国より日本への賜物(たまもの)」という見出しと、聖路加病院の写真がある。 裏の本文は、こうだ。

 「此の戦争は我々が始めたのではない。君等の知つて居る通り、この戦争は日本の軍部が予告もなく、又陛下の御裁可も仰がずに真珠湾を攻撃して始めたのである。

我々はこの戦争を始めなかつたが、その終局は引き受ける。必要とあれば君等の軍需産業及び軍事施設を全滅し得るのだ。必要とあれば我々は君等の国がすつかり廃墟と化するまで爆撃する事が出来る。 併し、我々は破壊を好まぬ。平和を好み、死を自己にも他人にも欲せぬ故に、我々は曾(かつ)て日本に病院を建て、それが今日も君等の間に役立つてゐるのである。

我々は自国の為に戦ふ人々に敬意を表する。君等は勇敢に戦つて来た。併し、我々は無駄な犠牲を嫌ふ。君等は勇敢に戦つたにも拘らず、今非常な不利な状態に陥つてゐる。はや、勝負は明(あきら)かである。これ以上戦闘を続ければ無駄な苦しみを増すばかりである。早く戦争を止(や)めて戦争以前の友達に成つて来給へ。君等の面目を傷つける様な事はしない。我々に対して恐れを抱く必要は決して無い。我々が子供や病人、また苦しんでゐる人々等に対して温かい感情を持つてゐる事はアメリカ人を知つてゐる者に聞けばよく分る。

君等は我々を恐れるより寧ろ陛下を裏切り、何百万の兵士を殺し、都市を死と荒廃に帰せしめ、剰(あまつ)さへ、君等を衣食の不足に陥れた軍部を恐るべきである。」

日野原先生は手紙に、このビラを読んだ人々がここは安全だと思ってたくさん集まってきます、その一方で、やはりあそこはスパイの巣だと言って特高や憲兵が来ます、と書いている。

 米空軍謀略ビラの福沢諭吉<等々力短信 第1140号 2021(令和3).2.25.>を、参照のこと。 ネットでは、「米軍宣伝ビラの画像」(bing.com/images)のコレクションや、早稲田大学20世紀メディア研究所の「戦時宣伝ビラ・データベース」などで、多くの実物を見ることができる。

37年目の訂正・上田保先生は上田敏の子ではなかった2021/11/08 07:09

 「三田あるこう会」に入れていただいた時、宮川幸雄さんが「博覧強記の人」と推薦して下さったという。 幹事長は「博覧強記」という言葉を久しぶりに聞いたとおっしゃっていた。 けして「博覧強記」ではない、それらしく見えるとすれば、最近はもっぱらインターネットの検索のおかげである。

 昭和59(1984)年4月15日の「等々力短信」第318号に「ボディー・ブロー」という一文を書いた(私家本『五の日の手紙』(昭和61(1986)年)116頁)。 「大学の教養課程で、英語を教えていただいた一人に、上田保先生という方がいた。上田敏の子だと聞いたが、たしかなことは知らない。」と書いていた。

 「上田敏」は『三田の文人』(丸善・平成2(1990)年)の「三田の主要文人リスト」に、「明7-大5 東京生。明30東京帝大英文卒。明43永井荷風を文学部教授に推薦。「三田文学」顧問。訳詩集「海潮音」(明38)」とある。 このリストに、「上田保」は、ない。

 最近、ウィキペディアで「上田敏」を検索したら、1874(明治7)年10月30日東京築地生れ、父・上田「糸冋」二(けいじ)は幕臣(当時は乙骨亘)静岡藩士族で、文久3(1864)年「横浜鎖港談判使節団」に理髪師として海外視察、子は長女・瑠璃子(ジャーナリスト、嘉治隆一の妻)しかなかった。

 「上田保」も検索。 「上田保(うえだ たもつ、1906年(明治39年)1月19日)-1973年(昭和48年)4月11日」は、日本の英文学者。山口県吉敷郡大道村(現・山口市)に生まれる。兄は詩人の上田敏雄。1929年慶應義塾大学英文科卒。34年第一書房に入社し『セルパン』で西洋文化の紹介を担当する。1941年慶大予科教員。1949年慶大経済学部教授、1960年海野厚志との共訳によるD・H・ロレンス詩集『どうだぼくらは生きぬいてきた!』で日本翻訳出版文化賞受賞。72年慶大を定年退職、名誉教授。妻は林芙美子の友人だった詩人の友谷静枝。」とあった。

 私が昭和59(1984)年4月15日の「等々力短信」第318号に、上田保先生を「上田敏の子だと聞いたが、たしかなことは知らない。」、「上田敏の子」と書いたのは、誤りだった。 37年を経ているが、ここに深くお詫びして訂正する。 まったく知らなかったが、上田保先生が日本翻訳出版文化賞を受賞されたのは、私たちが日吉のカマボコ兵舎教室で英語を教えて頂いていた頃だった。

上田保先生に文学の楽しみを教わる2021/11/09 07:02

 そこで、昭和59(1984)年4月15日の「等々力短信」第318号の「ボディー・ブロー」である。 こんなことを書いていた。

  「ノン・フィクションばかり読んでいると、むしょうに小説が読みたくなる。その逆の場合もある。 こんなことは、私だけのことなのだろうか。 本なんて、仕事に関係するものしか読まないという向きも、そういう人だからこそ、たまには文芸書を手にとってみたら、と思う。

大学の教養課程で、英語を教えていただいた一人に、上田保先生という方がいた。(訂正部分・略) 授業中、指名されても、予習していない場合は、訳さなくてもよい。 「基本人権だからな」と言うのが、口ぐせだった。 「基本的人権」ではなく、なぜか「基本人権」であった。 リチャード・オールディントンの“All Men are Enemies(:A Romance 1933)”を読んだ。 待ち合わせした女性が赤い服の正装で現れて、主人公が圧倒される場面がある。 「そんなことがあるだろう?」と上田先生。 そんなことがあるかもしれないな、と思った。 汽車がフランスからイタリアへ下っていく。 パーッと南国の明るさにつつまれ、陽気なイタリア人が乗りこんでくる。 にぎやかな食事が始まり、オレンジの香りが車内に満ちる。 不確かな記憶をたどって、今、そんなことを思い出していると、あの授業では「英語」ではなく「英文学」を、もっといえば文学の楽しみを教わったのだと気付く。 およそ、四半世紀を経て、ボディー・ブローのように効いてくる講義というものもあるのだ。

最近、読んだものでは、直木賞を受賞した神吉拓郎さんの『私生活』(文芸春秋)が面白かった。 十七の短編小説から出来ている本なのだが、それぞれの短い話の奥に、書かれなかったあれこれが豊かに広がっていて、読む者の想像を刺激する。 身につまされる話もある。 会話が実にうまい。 「かけだし老年」の三人の酒場での会話。 「シングルス」の鎌倉のテニスコートでのやりとり。 「つぎの急行」の主人公は、妻に「あんたは、ブレーキしかない人ね」と言われたのを境にして、夫婦間の理解などということを考えるのはやめにした。

先年、上田保先生が亡くなられたことを、学校の雑誌で知った。 なぜか自ら命を断たれたのであった。 一瞬、「基本人権だからな」という言葉が浮かんできた。」

「ボディー・ブロー」を書いてから37年、その四半世紀前のカマボコ兵舎教室で英文学を教えていただいてからだと、茫茫60年になる。

井上靖の自伝的映画『わが母の記』2021/11/10 06:53

 井上靖の自伝的作品をベースにした映画『わが母の記』をテレビで見た。 松竹2012年の原田眞人(まさと)監督作品。 作家の井上靖でなく伊上(いがみ)洪作を役所広司、母八重を樹木希林が演じている。 父母は長女(キムラ緑子)夫婦と伊豆の湯ヶ島にいて、父隼人(三國連太郎の遺作となった)が亡くなるところから始まる。 自称古美術商の次女(南果歩)と洪作は、東京に住んでいる。 流行作家の洪作家では、妻(赤間麻里子)長女(ミムラ)次女(菊池亜希子)や女中、編集者などが、印税の捺印に大忙しで非常に騒がしいのだが、中学生の三女琴子(宮崎あおい)は趣味の写真に夢中で手伝わない。 この宮崎あおいが重要な役回りで、やがて、担当編集者の下っ端・瀬川(三浦貴大)が、洪作家の書生兼運転手になり、大学生になった琴子と軽井沢の別荘で認知症になった八重の面倒をみたりすることになる。

 伊上洪作は5歳から8年間、伊豆湯ヶ島の土蔵で「土蔵の婆さん」曾祖父の妾、おぬい婆さんに育てられた。 雨の日、母(その母をタイトルバックに名はないが、内田也哉子が演じている)や妹たちは、洪作を残して、台湾へ行ってしまい、洪作はずっと母に捨てられたのだと、思っている。 映画は、そこに一つの結論をつきつけることになるのだが、それはひとまずおいておく。

 私は、井上靖の『わが母の記』三部作、母の80歳から89歳を描いた「花の下」(1964(昭和39)年)、「月の光」(1969(昭和44)年)、「雪の面」(1974(昭和49)年)は読んでいなかったが、若い頃に「あすなろ物語」(1954(昭和29)年)や「しろばんば」(1962(昭和37)年)を読んでいたので、井上靖が幼い頃、湯ヶ島の土蔵で曾祖父の妾、(おぬいでなく)おかの婆さんに育てられたことは知っていた。 後年、講談社文芸文庫の井上靖短篇名作集『補陀落渡海記』所収の「グウドル氏の手套(てぶくろ)」で、さらにそのへんの詳しい事情を読んだのだった。