37年目の訂正・上田保先生は上田敏の子ではなかった2021/11/08 07:09

 「三田あるこう会」に入れていただいた時、宮川幸雄さんが「博覧強記の人」と推薦して下さったという。 幹事長は「博覧強記」という言葉を久しぶりに聞いたとおっしゃっていた。 けして「博覧強記」ではない、それらしく見えるとすれば、最近はもっぱらインターネットの検索のおかげである。

 昭和59(1984)年4月15日の「等々力短信」第318号に「ボディー・ブロー」という一文を書いた(私家本『五の日の手紙』(昭和61(1986)年)116頁)。 「大学の教養課程で、英語を教えていただいた一人に、上田保先生という方がいた。上田敏の子だと聞いたが、たしかなことは知らない。」と書いていた。

 「上田敏」は『三田の文人』(丸善・平成2(1990)年)の「三田の主要文人リスト」に、「明7-大5 東京生。明30東京帝大英文卒。明43永井荷風を文学部教授に推薦。「三田文学」顧問。訳詩集「海潮音」(明38)」とある。 このリストに、「上田保」は、ない。

 最近、ウィキペディアで「上田敏」を検索したら、1874(明治7)年10月30日東京築地生れ、父・上田「糸冋」二(けいじ)は幕臣(当時は乙骨亘)静岡藩士族で、文久3(1864)年「横浜鎖港談判使節団」に理髪師として海外視察、子は長女・瑠璃子(ジャーナリスト、嘉治隆一の妻)しかなかった。

 「上田保」も検索。 「上田保(うえだ たもつ、1906年(明治39年)1月19日)-1973年(昭和48年)4月11日」は、日本の英文学者。山口県吉敷郡大道村(現・山口市)に生まれる。兄は詩人の上田敏雄。1929年慶應義塾大学英文科卒。34年第一書房に入社し『セルパン』で西洋文化の紹介を担当する。1941年慶大予科教員。1949年慶大経済学部教授、1960年海野厚志との共訳によるD・H・ロレンス詩集『どうだぼくらは生きぬいてきた!』で日本翻訳出版文化賞受賞。72年慶大を定年退職、名誉教授。妻は林芙美子の友人だった詩人の友谷静枝。」とあった。

 私が昭和59(1984)年4月15日の「等々力短信」第318号に、上田保先生を「上田敏の子だと聞いたが、たしかなことは知らない。」、「上田敏の子」と書いたのは、誤りだった。 37年を経ているが、ここに深くお詫びして訂正する。 まったく知らなかったが、上田保先生が日本翻訳出版文化賞を受賞されたのは、私たちが日吉のカマボコ兵舎教室で英語を教えて頂いていた頃だった。

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