打たれても前へ前へ出る男2021/11/26 07:06

 碑文谷の目黒通りを渡っていて思い出したのは、父の工場にガラスの極細管を求めて、アメリカ人のバイヤーが来た時のことだ。 ビュィックといったか、大きな乗用車でやってきて、たまたま遊びに行っていた私を運転席の両足の間に乗せて、ハンドルを握らせ目黒通りを走ってくれた。 目黒通りは、後に住むことになる等々力の方まで通じておらず、柿の木坂あたりまでだったか、ともかく大感激の印象深い出来事だった。

 「槍の笹崎」を書いたずっと後に、今でも東横線から見える笹崎ジムのビルを建てたといわれた、世界チャンピオンのファイティング原田について、「等々力短信」第1050号 2013(平成25)年8月25日「打たれても前へ前へ出る男」を書いていた。 それも以下に全文を引いておく。

 「槍の笹崎」を1996(平成8)年10月15日の第752号に書いた。 その夏ボクシングの笹崎「イ黄」(たけし)さんが亡くなり、笹崎ジムを後援していた父が前年秋に死んだからだ。 戦後、目黒の清水町に注射用のアンプル製造工場があり、多少盛んな時期があった(材料の管を小松川で生産)。 近所の笹崎ジムや、古橋らフジヤマのトビウオの日大水泳部を応援しており、子供の頃から拳闘や水泳の試合を観に行った。 11歳の昭和27(1952)年5月19日、後楽園球場で白井義男がダド・マリノを破り世界フライ級チャンピオンになるのも観た。 その白井がタイトルを失って8年、昭和37(1962)年10月10日、蔵前国技館でタイのポーン・キングピッチを破って、世界フライ級チャンピオンになったのが、笹崎ジムのファイティング原田19歳だった。

 百田尚樹さんの『「黄金のバンタム」を破った男』(PHP文芸文庫)は、そのファイティング原田を主人公に、白井に始まる敗戦後から昭和45(1970)年の原田引退までのボクシングの歴史と、それに勇気を得つつ日本の復興へと邁進する国民の姿を描いたノンフィクションだ。 当時、世界チャンピオンは8階級、8人しかいなかった。 主要4団体(WBA・WBC・IBC・WBO)だけで、17階級、68人いる現在とは、世界チャンピオンの価値がまるで違う。 白井から原田までの8年間、米倉健志、矢尾板貞雄、関光徳、野口恭が、白井を倒した「小さな巨人」パスカル・ペレス、ペレスを破った「シャムの貴公子」ポーン・キングピッチに挑戦したが、無念の涙を呑んでいた。

 「練習が好き」という明るい原田は、「鬼の笹崎」の猛練習と、過酷な減量に、耐え続けた。 愚直に前へ前へと進む、欧米の評論家が「狂った風車」と呼んだ鬼気迫るラッシュ戦法は、豊富な練習量によって作られた無尽蔵ともいえるスタミナに支えられていた。 しだいにフットワークやフェイントなどの技術にも磨きがかかる。

 原田には「強運」もあった。 昭和37年6月、長い間不動の世界ランク1位、キャリアのピークを迎えていた矢尾板が、ポーン4度目の防衛戦の挑戦者に選ばれ、試合は10月に決まった。 しかし6月東洋タイトルを防衛した矢尾板が突然、引退を表明する。 中村信一会長への積年の不満が原因だったという真相を、百田さんが矢尾板から聞き出している。 日本フライ級の1位は海老原博幸、ポーン側は代役に2位の原田を選んだ。 原田は11回の最終盤KOでポーンを倒し、日本人二人目の世界王者になる。

 原田が世界バンタム級を制し二階級王者となるのは、昭和40(1965)年5月18日、愛知県体育館、世界最強の男「黄金のバンタム」エデル・ジョフレ戦だった。 レフェリーがバーニー・ロスだった「運命」の物語は、ぜひ本で読んで頂きたい。