曽祖父の妾で祖母として入籍したおかのに育てられる2021/11/11 07:07

 講談社文芸文庫の井上靖短篇名作集『補陀落渡海記』に、井上靖の年譜がある。 井上靖は、1907(明治40)年5月6日、北海道旭川の旭川第七師団官舎で二等軍医井上隼雄・やゑの長男に生まれる。 井上家は伊豆湯ヶ島で代々医を業としてきた家柄で、父隼雄は入婿。 08年、満1歳のとき、父が韓国に従軍したので、母と伊豆湯ヶ島に移り、翌09年、父の転任に伴い静岡市に転居。

 1910(明治43)年 3歳の9月、妹の出産のために里帰りした母とともに湯ヶ島に移り、亡曽祖父潔の妾で祖母として入籍し土蔵に一人で暮らしていた「かの」に育てられる。 その後、一時、父母とともに東京、静岡、豊橋で過ごすが、就学前に「かの」のもとに戻る。

 1914(大正3)年 7歳 4月、湯ヶ島尋常高等小学校に入学。 1920(大正9)年 13歳 1月、祖母「かの」死去。 2月、浜松の両親のもとに移り、浜松尋常高等小学校に転校。 4月、浜松師範附属小学校高等科に入学。

なぜ、おかの婆さんに育てられたのか2021/11/12 07:07

 そこで、同書所収の「グウドル氏の手套(てぶくろ)」である。 井上靖が、長崎へ行き、自分に多少の関係のある明治時代の二人の人物を偲ぶよすがともなるような遺物(かたみ)を偶然目にすることができた、と始まる。 一つは、友人に丸山の有名な料亭に案内されて見た、松本順の筆蹟である。 「吟花嘯月(ぎんかしょうげつ)」の横額、蘭疇と署名され、松本順とはっきり読みとれる四角の印判が捺してあった。 井上靖は6歳から小学校5年の13歳の春まで、郷里の伊豆の家で、当時50代半ばに達していた、曽祖父潔の妾かの女に育てられた。 母屋の方は林野局の官吏に貸し、のこっている小さな土蔵の二階で、おかの婆さんと二人で暮らした。 曽祖父の師が初代の軍医総監を勤めた松本順だった。 おかの婆さんを通じて、松本順の名は幼い井上の心に、この世で最も尊敬する人物として記憶されていた。

 「一体どうして私がおかの婆さんの手で育てられたかというと、既に曽祖父も本妻のすがも亡くなり、そのあと彼女の妾という特殊な立場もさして問題にされなくなって、いつか家族の一員として、彼女は私の両親の仕送りで生活するようになっていたが、その頃でも若い時から一貫して持ち続けた自分の特殊な立場というものに対する不信の念は抜けず、曽祖父から代は三代も変わっていたが、やはりあととり息子というだけのことで、おかの婆さんは私を自分の手に握っておきたかったようである。/その頃は私の父や母も若く、おかの婆さんの執拗な要求もあって、寧ろ子供を引き取ってくれるのならそれはそれで楽でいいぐらいの気持で、私を彼女の手に託したものらしかった。要するに、私はおかの婆さんに取られた人質であったのである。」

 「おかの婆さんは、少年の私にも美しく見えた。少し険のある顔ではあったが、若い時は随分目立った顔であろうと思われた。彼女は、私の郷里とは天城一つを隔てた山向うの港町の出であるが、十八、九の時東京で芸者に出て、直ぐ曽祖父潔と知合いになり、間もなく落籍(ひか)されて潔が江川家(韮山の代官)の抱え医者となったり、最初の県立病院長として掛川、三島、静岡等を転々としている間中、ずっと任地に囲われており、潔が四十歳で健康上の理由で郷里に引っ込んで開業するようになった時、彼女は初めて半ば公然と、曽祖父の第二夫人として郷里へ姿を現わしたのである。その時彼女は二十六歳であった。」

 曽祖父潔が伊豆に引退して開業した後も、松本順との交流は続き、松本順は何度か伊豆に曽祖父を訪ねて来ている。 それは金策のためらしく、借金のかたの松本順の筆蹟が十数点残っていた。 「豪(えら)い方というものは、何事にも秀(ひい)でなされている。お医者様としてあれほどお豪いが、そればかりでなく、お歌を作られても、字を書かれても、先生に敵(かな)う者は、この日本の国には一人もなかった。よくそうおじい様は言いなされた。見てごらん、あの字の勢いのいいこと!」 おかの婆さんは、そう言って土蔵の二階の欄間にかかっている二枚の横額を、何も判らぬ少年の私に示すのが常であった。 一つは「養之如春」、もう一つは「居敬行簡」。 前者には癸未(みずのとひつじ)早春、即ち明治16年とあった。

「養之如春」これを養うや春の如し2021/11/13 07:05

 「養之如春」について、16年ほど前に書いていた。 それを引く。

    「養之如春」これを養うや春の如し<小人閑居日記 2005.1.22.>

 小柴温子さんがエッセイ集『土曜日の午後IV』(近代文芸社)を送ってくださった。 小柴さんは、昨年初夏に自宅前で転んで重傷を負い、今もなお入院中と聞いていたのに、本を出されたのには、驚いた。

 その中に「井上靖展」(2000.6.)という一編があった。 世田谷文学館での展覧会で、係員に断ってパネルを書き写してきたという一節がある。

<養之如春。これを養うや春の如し。

郷里伊豆の私の家の二階にかかっている横額の文字である。

したがって意味はわからないままに、幼時からわたしの心に刻まれている言葉であり、成人してからこの四文字の意味するものを自分流に解釈し、次第にその意味の深さを知るようになった言葉である。

 養之如春の「之」には何をあてはめてもいいと思う。家庭をつくることでも、病気を癒すことでも、子供を育てることでも、仕事をすることでも何でもいい。 春の光が万物を育てるように、焦らずゆっくりやりなさいということである。

 現在、わたしはいかなる小説を書く場合でも、この四文字を念頭に置いている。焦らず、ゆっくりと、時間をかけて、と自分に言い聞かせている>

                        (『好きな言葉』(昭和五十八年)より)

 「養之如春」の横額を誰が書いたか、私は知っていた。 「グウドル氏の手套」を読んだばかりだったからである。 松本順。 癸未(みずのとひつじ)早春、即ち明治16年とも、認められていた。 横額は、もう一枚あって、それは「居敬行簡」だった。                              (引用おわり)

 今回、「居敬行簡」も調べてみたら、『論語』雍也篇第六の一に「居敬而行簡」とあり、敬に居て簡を行ない、「慎重に考えた上で、鷹揚に事をなす」、「心構えが慎み深く、行動がおおまかである」という解釈があった。

おかの婆さんとグウドルさんの手套2021/11/14 07:25

 そこで「グウドル氏の手套」の後半、井上靖がその翌日に長崎で目にした、もう一つの明治時代の人物を偲ぶよすがともなるような遺物(かたみ)の話である。 坂本町の外人墓地で、E・グウドル氏の墓、1889(明治22)年の物故者で、横文字の名前の下に「具宇土留氏之墓」と彫られているのを見つけた。 グウドル氏、グウドル氏と何回か口の中で繰り返していて、「グウドル氏の手套」のグウドルだと言うことをふと思いついた。

 私(井上靖)は、おかの婆さんと一緒に住んでいた頃、“グウドルさんの手套”と呼ばれていた大きな皮の手套を何回か見たことがあった。 そのグウドルさんが、目の前に眠っている具宇土留氏その人かどうかは勿論判らなかったが、昨日と今日と引き続いて二回も、おかの婆さんを偲ぶよすがとなるようなものにぶつかったことが、ひどく不思議に思われた。

 グウドルさんの手套を初めて眼にしたのは、確か小学校に上がった年の大掃除の時だったと思う。 分家の方から二、三人若い者が手伝いに来て、土蔵の二階から家財道具を庭に並べた中に、新聞紙に包まれた白い皮製の大きな手套が出て来た。 グウドルさんの手套だと、おかの婆さんは言った。 春秋二回の大掃除のたびに、この手套を手にするのが楽しみで、欲しかったのだが、何事にも寛大なおかの婆さんも、この手套だけは自由にさせなかった。

 彼女が亡くなる前年、白内障を患っていて、外出を控えて、窓際などに眼をつむって、おだやかな表情をし、邪気のない笑顔で座っていることがあった。 そうした折に、グウドルさんの手套のことを聞いてみた。 グウドルさんは、わたしとおじいさんが松本順先生に連れられて麹町の本社に行って、受付で名前を書いた時、すぐ背後にいなされた異人さんだった、という。 皇后様もお成りになり、宮様も大臣方もお見えになる大変な日で、異人さんだって何百人もいた。 おまけに雪が降っていて、混雑振りはお話にならなかった。 何かの都合で、おかの婆さんはそこの玄関先で松本先生とおじいさまをお待ちすることになった。 雪の降る日に二時間も三時間も、御馳走を食べないで外で待っているのは、可哀そうだとおっしゃって、一度も会ったこともないグウドルさんが、ポケットから手套を出して、これをはめていなさいと言って私に貸して下さったんだよ。

 「彼女がグウドルさんの手套をあれほど大切にしていたことは、一人の心優しい外人への感謝の気持がこめられていると共に、それは彼女の生涯での、一つの悲しい出来事の記念ではなかったか。それは丁度、松本順への彼女の並々ならぬ没我的尊敬が、彼女のさして幸福だったとは言えそうもない人生行路に、思い出したように時折廻って来た楽しかった小さい幾つかの出来事の記念碑であったように。」

映画『わが母の記』の結末2021/11/15 07:10

 そこで10日の「井上靖の自伝的映画『わが母の記』」(原田眞人監督作品)で、「雨の日、母(樹木希林でなく、内田也哉子が演じている)や妹たちは、洪作を残して、台湾へ行ってしまい、洪作はずっと母に捨てられたのだと、思っている。 映画は、そこに一つの結論をつきつけることになるのだが、それはひとまずおいておく。」とした、結論の件である。

 確認しておくが、映画で井上靖は伊上(いがみ)洪作(役所広司)、父隼雄は隼人(三國連太郎)、母やゑは八重(樹木希林)、そして映画には出て来ない洪作が預けられる曽祖父の妾は、おかの婆さんでなくおぬい婆さんという名になっている。 おかの婆さんについていろいろ書いてきたので、樹木希林がその婆さんを演じていると思われるかもしれないが、樹木希林が演じているのは母八重である。

 八重がだんだん耄碌してきて、きちんとお返しをしないといけないので、洪作に「香典帳」を出せ、と言い出す。 そして、自分が健康を害していたので早く引き取るつもりで、おぬい婆さんの所に洪作を預けた、翌年迎えに行ったが渡してくれなかった、と。 三女琴子(宮崎あおい)が洪作に、なぜおぬい婆さんに育てられたのかと聞く。 おぬい婆さんは曽祖父の妾だったが(琴子は不潔だ、と)、曽祖父は孫の八重を分家させて、そこに母親としておぬいを入籍させた、自分に尽くしたくれた女の老後を心配したのだろう。 (隼雄(隼人)が入婿なのは、井上靖の年譜で見た。)

 八重の認知症が進み、徘徊が始まる。 洪作が原稿を書いているところに八重が来て、洪作が沼津中学に入った頃、おぬい婆さんがコロッと逝ってくれたからよかった、と言う。 そして、洪作が小学生の時、遊動円木に座って作った詩を口ずさむ。 「雨が止んだ 校庭にはたくさんの水たまりができている 太平洋 地中海 日本海 喜望峰 遊動円木の陰 だけど ぼくの一番好きなのは 地球のどこにもない 小さな海峡 お母さんと渡る海峡」 八重は、洪作が詩を書いた紙を大事に持っていたのだ。 洪作の眼に涙があふれる。

 洪作は妻と娘、妹と日本丸で外国へ出かけることになり、三女琴子と八重は世田谷の家で留守番する。 妻は乗船したところで、結婚式の時、八重から聞いた話を、初めて洪作にする。 台湾に渡るのは死ぬ思いだった、出航の前に輸送船が撃沈されたそうで、せめて長男だけは実家に預けて、海を渡る時は一人だけは残す、血筋が途絶えたらご先祖に申し訳がない、一人でも生きていける気性の激しい子は残しなさい、と言われた。

その頃八重が徘徊、たまたま船から電話した洪作が、それを知る(結局、出航前に一人下船する)。 八重は、トラック運転手の溜り場に現れ、「息子に会いたい、沼津の港に行きたい」と言う。 ちょうど沼津の御用邸方面に行く運転手がいて、八重を乗せて走り出す。 そこへ琴子が現れ、別の運転手のダンプに乗せてもらい、東名高速を追いかけることになる。

沼津中学の頃、飛び込み台まで泳いだという浜辺で、八重と琴子、そして洪作が合流する。 琴子は途中、八重が車に酔って病院に行ったり、親切な運転手の世話になって大変だった、と話す。 洪作は、琴子を抱いて、ご苦労様でした、と。 八重をおぶって、海に入る洪作に、八重は「ありがとうございます。どこのどなたか存じませんが…」と、言う。

 映画の原田眞人監督は、沼津市生まれ、静岡県立沼津東高校卒、つまり井上靖の沼津中学校の後輩である。 井上靖の年譜では、家族全員が前年に赴任した台湾の父のもとに移って、井上靖が三島の親戚に預けられるのは、17歳の1924(大正13)年だから、そこに映画としての脚色があると思われた。