藍と浮世絵の「青」の色2021/10/24 07:43

 同人誌『雷鼓』の重要な書き手だった志摩泰子さんから頂いた随筆集『藍の色』に「青の世界」というエッセイがあった。 志摩さんは藍の産地である徳島のご出身で、随筆集の表紙にも県指定文化財「蓼藍染和紙」を素材に地紋のパターンを縮小・反復して使用している。 藍といえば徳島だと思っていたら、大河ドラマの『青天を衝け』で渋沢栄一の埼玉深谷も産地だったことを知った。

 「青の世界」は、平成27年に三島市の佐野美術館で開かれた、浮世絵版画に使われる青色絵の具に焦点を当てた展覧会を観に行った話である。 浮世絵師の祖といわれる菱川師宣を始め、喜多川歌麿、東洲斎写楽、幕末の葛飾北斎、歌川広重の作品が百点余り、礫川(こいしかわ)浮世絵美術館館長、故松井英雄夫妻のコレクションが展示されていた。 松井氏は杏林大学医学部教授として化学者の立場から、青色成分を研究し色彩の流れを辿っている。

 浮世絵は墨摺絵から始まり、18世紀半ば頃から多色摺りへ変化を遂げた。 様々な色彩の中でも「青」の発色は難しく、試行錯誤が重ねられてきた。 明和年間、鈴木春信によって「露草青」が使われ始めたが、彩色時は美麗なのに、植物染料で退色しやすく、水に滲みやすかった。 天明、寛政期になると、歌麿は「露草青」に紅を混ぜた紫で「當世三美人」などを描いているが、「露草青」は退色し、鮮やかな紫色は失われて橙褐色となっている。 寛政年間、写楽は藍棒で錦絵を描くが、藍は退色はしないが、不溶性で使い辛く、濃い青から淡い青への色の変化や表現が困難で、普及しなかった。

 1704年、ベルリンで化学的な合成染料ベルリンブルー、別名「ベロ藍」、紫がかった深い青、「紺青」が発見される。 平賀源内によって紹介されたが、南蛮貿易品で入手が難しく、その良さが認知されなかった。

 文政期、輸入が増え(最初の輸入は延享4(1747)年)葛飾北斎が使い始める。 非退色で鮮明な「ベロ藍」は可溶性でぼかし摺り(グラデーション)が可能だった。 遠近法や広がり、深さの表現には、ぼかしの手法は欠かせないもので、北斎の「富嶽三十六景」は人気を博した。 風景画には、空や水、透明感のある青が欠かせない。 北斎の有名な「凱風快晴」「神奈川沖浪裏」には、「ベロ藍」の他に藍の使用が判明した(赤富士の左下の樹林の部分、浪裏では輪郭の部分)。 藍は「ベロ藍」と異なる青色として使い分け、微妙な色調画面を構成し、芸術性を高めている、という。