慶應義塾に学んだ高崎の殿様の弟・大河内輝剛2023/09/11 07:01

 この日記の8月23日から、松平春嶽の子弟教育のことを書いたが、その流れで渡辺洪基のことに触れ、渡辺洪基宛の福沢書簡で、高崎の殿様子爵大河内輝声の弟大河内輝剛(てるたけ)が慶應義塾に学び、塾監までやっていることを知った。

その書簡は、書簡番号287、渡辺洪基宛、明治11年12月12日付。 渡辺洪基に、馬場辰猪の学習院教師採用を催促し、大河内輝剛の教員就職を依頼するもの。 後段の大河内輝剛は、旧高崎藩主の子爵大河内輝声の弟で、明治5年11月入塾、11年7月本科卒業、のち14年4、5月頃、渡部久馬八の後任として慶應義塾塾監に就任した。

『福澤手帖』73、川崎勝さんの「書簡からみた福沢諭吉と馬場辰猪―渡辺洪基、草郷清四郎宛他書簡」によると、大河内輝剛については「華族ニは珍らしき」人物で、「今華族中ニも斯る人物あるを知らしめなバ或ハ該族一般の面目随て学習院之飾ニも可相成哉ニ被存候」と、校風に新風を吹き込んで華族の刷新をはかることを意図しての推薦であったと考えられ、このことがまた渡辺の学習院改革に対する福沢の期待であった、という。 しかしながら、結局、馬場辰猪、大河内輝剛はともに、学習院の教師として雇われることなく終わったのだそうだ。

 そこで大河内輝剛を、『福澤諭吉事典』『福澤諭吉書簡集』を索引から見てみた。 まず、『福澤諭吉事典』。 「華族論」の項、福沢は明治2(1869)年の版籍奉還で「華族」となった公卿と諸侯について、明治初年から晩年まで折に触れて論じている。 そこには、期待と失望の両面を見てとることができるという。 明治10年に記した「旧藩情」では、華族が学校建設に取り組むよう期待しており、また、慶應義塾では外国人教師採用に私財を投じた太田資美(すけよし)を賞賛し、学業優秀だった大河内輝剛を学習院の教師に推薦している。 義塾は明治10年頃まで積極的に華族を受け入れており、その数は64名に達した。

 「大名華族との交流」の項。 廃藩置県(明治4年)前後から学習院発足(明治10年)前後までの間に、64名の華族が慶應義塾に入学しているが、そのうち57名は旧藩主家の当主、またはその子弟であり、岡部長職(ながもと・岸和田)、大河内輝剛(高崎)など、福沢から高い評価を受けた大名華族の塾生もいる。

 「国内旅行」「明治19年 東海道・京阪の旅」の項、同年3月10日から4月4日まで、福沢が前月没した緒方洪庵夫人八重の墓参と、鉄道の普及で各地の民情風俗が変化しないうちに視察するために、東海道・京阪に旅行したのに、大河内輝剛は、酒井良明、内田弥八、岡本貞烋(さだよし)、本山彦一とともに同行している。

 「三宅豹三」の項。 三宅豹三は、備後国(現広島県)出身で明治14(1881)年9月慶應義塾入学。 時事新報社員、後藤象二郎秘書、実業家。 三宅豹三は明治38年、経営が悪化した歌舞伎座の株を、井上角五郎、藤山雷太、大河内輝剛に買い取らせるなどして、専務取締役に就任している。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック