1941年春、松岡洋右外相のヨーロッパ旅行2024/06/01 07:09

 5月25日の等々力短信第1179号「チャーチルとケネディ駐英大使」に書いた広谷直路著『「泣き虫」チャーチル 大英帝国を救った男の物語』(集英社インターナショナル)だが、ほかにも知らなかった興味深いことがあった。 その一つは、チャーチル首相が松岡洋右外相に書いたという1941(昭和16)年4月2日付の手紙である。 実は、その25日後に、私は生れた。

 日独伊三国同盟は、その前年1940(昭和15)年9月に締結されていた。 松岡外相は、日独伊三国の同盟関係を内外にアピールするため、1941(昭和16)年3月12日、ヨーロッパ訪問旅行に出発した。 往路復路ともモスクワ経由で、ベルリンとローマに赴き、スターリン、ヒトラー、ムッソリーニと会談する予定だった。 ドイツの英本土上陸作戦がいつ実行されるのかを探るいっぽう、ドイツの仲介によりソ連との国交調整を果たすのが、具体的な目的だった。 松岡の構想は、独ソ不可侵条約のあるドイツによる日ソ調整で、一挙に不可侵条約までもっていく、さらに独伊にはかり、ソ連も加えて「日独伊ソ四国協商」をむすび、そのうえで日米関係を改善する対米交渉にのぞむというものだった。

 松岡はロンドンの重光葵駐英大使に、中立国でのミーティングの設定を指示した。 交戦中の任地を出国するには、任地国の外務省の了解がなければならないし、すぐに利用できる渡航手段もない。 イギリスのバトラー外務政務次官は、了承したばかりか、中立国スイスに向かうフライトのアレンジまで申し出てくれた。 チャーチル首相らイギリス側は、傍受、解読された重光の日本外務省宛電信によって、重光が「イギリスの戦争努力とヨーロッパ情勢に関して適切な理解を示していること、日本がドイツ側に立って参戦することはあまりにも無謀だと考えていたこと」を知っていたのだ。 しかし、松岡は中立国スイスに回る時間的余裕はないとして、重光にベルリンに来るよう言ってきた。 重光はイギリスと交戦中の敵国の首都には行けないと拒絶、旅行中止をイギリス側に申し入れた。 英外務省はチャーチルの書簡を、モスクワで直接松岡外相に手渡せるよう駐ソ連イギリス大使に打電したのであった。

 3月27、28、29日の三度にわたる日独会談で、ヒトラーは、対英戦ではドイツがだんぜん優位な戦況にあると力説し、日本がイギリスを攻撃する好機である、と繰り返した。 日本側が最も知りたかった、ドイツが英本土上陸作戦を決行する意図をもっているかについては、明瞭な答を得られなかった。 ドイツの仲介によりソ連と国交調整する件も、ヒトラーは松岡出発の一週間前の3月5日、「対ソ攻撃「バルバロッサ」作戦計画に関しては日本に対し何らの暗示も与えてはならぬ」、「出来る限り早く日本を極東において現実の軍事行動に引き込むこと(日本軍によるシンガポール攻撃)」と厳命していた。 大島浩駐独大使も、モスクワへ行く松岡をポーランドに画された独ソ新国境まで追いかけて、独ソ開戦の可能性が強いから、日ソ不可侵条約を結ばないよう進言した。

 ドイツによって三国同盟への加入を強制されたユーゴスラヴィアで反ナチス・クーデターが発生(3月26日)、ユーゴの新政権はソ連と不可侵条約をむすび、それに激昂したヒトラーはユーゴ進撃を命令(4月6日)した。 ドイツ軍がなだれをうってユーゴへ侵攻したのは、松岡外相一行がちょうどポーランドに画された独ソ新国境を通過した日であった。

チャーチル首相の松岡洋右外相宛書簡2024/06/02 07:31

 そこで、松岡一行を先回りしてモスクワで待っていた、チャーチル首相が松岡洋右外相に書いた1941(昭和16)年4月2日付の手紙である。

 この際、日本帝国政府と日本国民の皆さんが、もっと注目してもおかしくない問題点をいくつか並べさせてもらいます。

 I 制海権も制空権もないドイツが、今年の夏または秋までにイギリスへ侵攻し征服することができるでしょうか。ドイツは実際にトライするでしょうか。こういった見通しがつくまで待ったほうが日本の利益になりませんか。
 Ⅱ 英米両国が全産業を戦争目的にシフトさせるなかで、イギリス船によるアメリカの援助物資の海上輸送をストップできるほど強力な攻撃力が、ドイツにはありますか。
 Ⅲ 日本の三国同盟加入によって、アメリカが参戦する可能性は高まりましたか、それとも低下したでしょうか。
 Ⅳ アメリカが英国側、日本が枢軸国側で参戦した場合ですが、英語2ヵ国連合は優勢な海軍力によってヨーロッパの枢軸国と決着をつけてから、日本に対して総力をぶつける可能性があるのではないでしょうか。
 Ⅴ イタリアはドイツにとって頼りになるパートナーですか、それともお荷物ですか。イタリア海軍の実戦力は、名目戦力ほどにととのっていますか。また、その名目戦力ですが、過去の戦力より劣っているようなことはありませんか。
 Ⅵ イギリス空軍は1941年中に増強され、1942年いっぱいにはドイツ空軍より、はるかに強大になっていませんか。
 Ⅶ ドイツ陸軍と秘密警察(ゲシュタポ)に服従させられている諸国は、やがてドイツが好きになるものなのでしょうか。
 Ⅷ 1941年中には、アメリカの鉄鋼生産高が7千5百万トン、イギリスは1千2百万トン、両国あわせると約9千万トンになるのではありませんか。第一次世界大戦のように、もしもドイツが敗戦する場合、日本の鉄鋼生産7百万トンでは単独で戦争をつづけるのは無理なのじゃないでしょうか。

 以上の問題を解消できれば、日本は悲劇的な結末を迎えないですむでしょうし、日本と欧米の二大海事国との関係はいっそう前進することでしょう。

 私は、このチャーチルの挙げた問題点とアドバイスを、素直に受け取り、一つ一つを真剣に検討、検証したならば、日本はこの年の12月に真珠湾を攻撃しなかったのではないか、と思わずにいられない。

「日ソ中立条約」と、松岡のチャーチル宛返信2024/06/03 07:03

 ベルリンからモスクワに到着した松岡外相を迎えた西春彦駐ソ公使(戦後の駐英大使)によれば、松岡は「ドイツは対ソ攻撃をやるだろうかと私たちにも質問し、この点をしきりに気にしている模様であった」。 4月7日に松岡・モロトフ外相会談。 「国交調整」交渉の日本側の主張に対して、当時日本領だった、南樺太(現サハリン南部)と千島列島(クリル列島)の領土権をソ連が放棄する「不可侵条約」には応じられない、ソ連にとって失地回復の余地を残す「中立条約」でどうだ、とモロトフはゆずらなかった。

 第2回会談で松岡が「不可侵条約を撤回して、中立条約への同意まで一歩退き、ただしその中立条約は無条件」としたのに対し、モロトフは「北樺太利権の解消」を要求した。 日をおいた第3回会談でも交渉はまとまらず、断念しかけたときに、スターリンが直(じか)に電話をよこし、交渉に乗り出してきた。 結果は、「北樺太利権の解消に努力する」ことで決着しようというスターリン提案に松岡が応じた。

 こうして1941年4月13日午後2時ごろ、「日ソ中立条約」は、クレムリンの執務室でスターリンが見守るなか、松岡、建川美次駐ソ大使、モロトフの三人によって調印された。 隣室に移動して、シャンパンが抜かれ、まずスターリンが「天皇陛下のために」と乾杯した。

 いったん日本大使公使公邸に戻り、祝宴を張った松岡一行は、午後5時前にヤロースラヴ停車場に着いた。 何とスターリンとモロトフが送りに来て、双方とも酔っ払った状態で、松岡、建川と熱い抱擁を交わした。 チャーチルは、この「駅頭シーン」を回想録に、「こうした抱擁はそらぞらしい見せかけであった。スターリンは自国の情報機関によって、現にソ連国境全線にわたってドイツ軍が大規模に展開されていたことを知っていたに違いない。その展開は英国情報機関の目にも付き始めていたのだから」と書く。 さらに松岡については、「松岡氏はモスクワ滞在中に私の手紙を受取り、シベリア横断列車で帰国の途中、内容空疎な返書を認(したた)めて、東京に着くとともに発送した」とある。

   松岡のウィンストン・チャーチル宛返信 1941年4月22日

(重光駐英大使が松岡との打ち合わせのため大陸へ渡航しようとした際の英国政府の配慮に感謝した後) わが国の外交政策は、事実関係のすべてを公平に評価し、直面する諸情勢を注意深く検討したうえで、常に、征服も抑圧も剥奪もない世界平和を目指して、私どもが八紘一宇と呼ぶ民族的精神にもとづき決定されますことを、ご賢察いただけると思います。

いったん外交政策が決まりましたならば、情勢の変化をつぶさに考慮しつつ、慎重のうえ慎重をかさね、しかし断固として、実行するのは申すまでもありません。

この手紙の5日後に生まれた私は、この「八紘一宇」のスローガンから「紘二」と名付けられた。 兄は、母方の祖父の名から「晋一」、戦後晴れた日に生まれた弟は「晴三」と、一二三と順番になっている。

公式伝記『ウィンストン・S・チャーチル』2024/06/04 06:57

広谷直路著『「泣き虫」チャーチル 大英帝国を救った男の物語』(集英社インターナショナル)の後半は、チャーチル首相とフランクリン・ルーズベルト大統領がどのように協力し、チャーチルは米軍機のB-25やクリッパー飛行艇でアメリカ、エジプト、イラン、ソ連と飛び回り、三国同盟の枢軸国イタリア、ドイツ、日本を破っていくかの物語である。

1945(昭和20)年4月1日、太平洋戦線のアメリカ軍が沖縄本島に上陸した。 4月12日、ルーズベルト大統領が、ジョージア州ウォームスプリングスの「リトル・ホワイトハウス」で、脳内出血で死去、ハリー・トルーマン副大統領が第33代大統領に就任した。 17日、故大統領のイギリスにおける追悼式がセントポール大聖堂で行われ、チャーチル首相は、あふれ出る涙を拭おうともせずに式場をあとにしたという。 4月28日、ムッソリーニをパルチザンが銃殺、4月30日、ヒトラーが総統官邸で拳銃自殺した。

広谷直路さんは「あとがき」で、1965年1月24日に死去したウィンストン・チャーチルの《公式伝記》についてリポートしている。 1962年、チャーチルが88歳を迎える年になって、父親の伝記執筆をライフワークにしたい思いの長男ランドルフにオーケーを出した、ただし、生前の出版はまかりならぬという条件で。 ランドルフは、オックスフォード大学の大学院を修了したばかりのマーティン・ギルバート(25歳)をアシスタントに公式伝記『ウィンストン・S・チャーチル』のプロジェクトをスタートした。 1966年『第1巻 ユース』から刊行を開始、1968年ランドルフが亡くなり、ギルバートが後継となり、2015年ギルバートが亡くなると米国人教育家ラリー・アーンが引き継ぎ、2019年、全31巻(3万ページ超)、資料編23巻が、刊行開始から53年目に完成した(出版元Hillsdale Press)。

広谷直路さんは、高校生のころ鶴見祐輔『ウィンストン・チャーチル』に出合い、30歳代後半で河合秀和教授の『チャーチル』に巡りあったのを契機に、さまざまなチャーチル本を読むようになったという。

小泉信三さんの『座談おぼえ書き』(文藝春秋)に「チャーチル」という一文がある。 チャーチル25歳のある事件を書いているのだが、「ただこの一事件のみを以てしても彼れの伝記は一読に値する」とある。 その一事件については、また明日。

チャーチル、南ア戦争で捕虜となり脱走する冒険談2024/06/05 07:04

 小泉信三さんが「南阿戦争」と書いた「南ア戦争」、『広辞苑』には「1899(明治32)~1902(明治35)年、トランスヴァール共和国およびオレンジ自由国に対して、金などの資源獲得のためにイギリスが行なった植民地拡張戦争。イギリスは辛勝した後、両国を併合、1910年南ア連邦を建設。ブーア戦争。ブール戦争。ボーア戦争。南アフリカ戦争。」とある。

 チャーチルは25歳の時、この南ア戦争に新聞通信員として従軍し、戦闘に参加して捕虜となり、敵の首都プレトリアの捕虜収容所から脱走して国外に逃れ、今度は軍人として戦場に復帰し、退却する敵軍を追尾して元の捕虜収容所に乗り込み、戦友等を釈放したその始末は、ちょっと作り話の冒険談にもないスリルを感じさせる、と小泉信三さんは書き始める。 南ア戦争は1899年に起り、大英国は3年の年月を費やし、30万の大兵を動かして、ようやくブーア人を屈服させることができたので、あまり自慢になる戦争とは見られない。 元来ブーア人はオランダ人の入植者で、これが南アフリカにトランスヴァール共和国およびオレンジ自由国を建設したのが、喜望峰植民地から北進するイギリス人と衝突することになった。

 これより先、ウィンストン・チャーチルはサンドハースト士官学校を卒業し騎兵将校となり、インド駐屯中、辺境部族との戦闘に参加し、またキッチナー将軍の下にアフリカのナイル河戦争にも出征して、それぞれ新聞に通信した戦記によって人に知られていた。 南ア戦争が起り、彼は再び「モーニング・ポスト」新聞の通信員となって現地に赴いた。

 11月15日、アフリカ南東端の海港ダーバンから西北150キロの地点で、英軍は装甲列車で強行偵察を試みていたが、敵に襲われ、脱線した。 記者であるべきチャーチルも、兵とともに応戦しているうちに離れ、そこを敵兵に襲われる。 一人騎馬のブーア兵が銃をふりかざし、何か叫びながら急迫してきた。 チャーチルは腰の拳銃をさぐるが、落としたのか、ない。 やむなく手を挙げて降服し、捕虜となった。 このブーア兵は、後に南アフリカの首相となったルイス・ボータ将軍であったという。 後年、チャーチルが植民省次官のとき、英領南ア共和国の政治家数人が、ロンドンの植民省に復興債発行の依頼に来た。 チャーチルが承諾した後、南ア戦争で捕虜になった顛末を話すと、その一人が「私の顔に見覚えがありませんか」と言った。 ルイス・ボータだった。

 捕虜となったチャーチルは、首都プレトリアの捕虜収容所に護送された。 学校の建物で、60人の英国士官が40人のブーア警官に監視されていた。 12月12日夜、チャーチルは単身、便所の窓から抜け出し塀をのり越えて脱走した。 夜中にプレトリア市中を通り抜け、鉄道線路に出て貨物列車に飛び乗った。 翌朝未明に飛び降りて、また夜を待ち、飢え疲れ、灯火をたよってある家の戸を叩く、内から誰何する言葉は、完全な英語だった。 チャーチルは、汽車から落ちて負傷したと偽ったが、主人は彼を一間に招き入れ、錠を下ろし、短銃を卓に置き、「貴方、本当のことをいってくれませんか」と言った。 主人は布告で脱走のことを知っていたのだ。 布告の人相書には、「鼻声で語る。Sを正しく発音すること能わず」とあり、懸賞金は25ポンド(約2万5千円)であった。 結局、彼はこの人に救われ、その管理する炭坑の内に潜んで、逃れることができた。 逃走後6日の12月18日になって、貨物列車の積荷の間に隠れて国境を越え、アフリカ南東岸ポルトガル領ロレンソマルケスの英国領事館に名乗り出る。

 ところがチャーチルは、せっかく脱出に成功しても本国には帰らず、今度は本来の将校になって、また戦場に立ち帰る。 そして最後は、退却する敵軍の後を追って、プレトリアの捕虜収容所に乗り込んで、そこに囚われている戦友を解放した。 そして、軍服を脱ぎ、本国に帰ってオルダムの選挙区から衆議院議員に立候補した。 選挙区民が彼を国民的英雄として迎えたのは当然で、これがチャーチルの政治生活の発端となった。 1900年7月、26歳の時のことだった。