マルティン・ルターの気分 ― 2006/01/21 06:34
2004年8月刊行の『福沢諭吉の真実』で平山洋さんが提起された問題に関連 して、私は「創立150年への宿題」<等々力短信 第946号 2004.12.25.> に、「新年からは、2008年の慶應義塾創立150年に向けて、井田進也さんの方 法をとっかかりにして、「時事新報論集」についての議論を活発にするとともに、 ぜひとも『福澤諭吉全集』のCD-ROM化を実現してもらいたいと思う」と書 いた。 この問題でも福沢のいう「多事争論」が求められていると思ったから である。 しかし、慶應義塾や福沢研究関係者の間での『福沢諭吉の真実』の 扱いは冷たいようで、一向に論議が巻き起こらないまま、それからも一年が経 過した。
平山さんは『表現者』11月号で「間違った福沢像を覆してくれて慶応は喜ん でいるでしょう、と皆さんおっしゃるわけですが、全然そうじゃないんです。 そんな簡単なものじゃないんですね。カトリシズムのようなものなんです(笑)。 新約聖書のなかでも、イエスの言葉はごく一部ですよと言いたいのだけれども、 パウロの系譜というのがあって、それを守るしかない現実がある。」「そこで、 これからの福沢研究は、まずその姿勢自体を問い直すところから始めなければ ならないと思うのです。」「私自身の恣意性について疑念が晴れないせいか、私 の本は福沢協会の『福沢諭吉年鑑』で取り上げてもらえないし、『史学雑誌』で も紹介されてはおりません。ただ、黙殺については、恣意性だけが問題なので はないでしょう。」「まず慶応主流のほうとしては、私の説には触れたくない。」 「もう一方の福沢否定派も、当然私の言っていることは認めたくない。こちら は要するに福沢を侵略主義者にしておきたい人たちですね。」と、語っている。 18日の講演のレジメの最後にも「私はほとんどマルティン・ルターの気分です」 と、あった。
ただ『福澤諭吉年鑑』については、その31、2004年版に「研究文献案内」 で『福沢諭吉の真実』のデータが紹介され、関連する論文の平山さん自身によ る要約が掲載されていることを、指摘しておく。
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