「砲術家」「海防家」福沢諭吉 ― 2007/12/19 07:49
井田進也教授は、砲術家山本物次郎の所の食客となった福沢が、この家の公 私一切を代行する中で、砲術家福沢諭吉として第一歩を踏み出した、とみる。 魏源『海国図志』百巻本が舶来した1854(安政元)年、『翻刊海国図志』(籌(ち ゅう)海篇)というゼネラル・イントロダクションのような塩谷宕陰・箕作阮甫(漢 学と蘭学、それぞれのトップ)共編の訓点本が出た。 (籌)というのは、は かりごと、(籌海)は軍艦に対する戦術論、つまり海防のことである。 ペリー来航後の この時期、日本の最大の関心事は海防であった。 砲術家に続いて、井田さん は福沢に「海防家」という言葉を使う。 蘭学時代の福沢は「海防家」であり、 「洋学者」に転じたのは英学に転向してからだ、とみるのである。
『海国図志』の翻刊には、アメリカ合衆国、イギリス、ロシア、プロシャは あるが、オランダはない。 既に(覇権を失った)オランダに対して、日本人 の関心が向かなくなっていたのだ。 そんな時に、福沢はオランダ語の修業を 始めた。 蘭学はもうダメなのに、長崎から大坂へ出て、緒方洪庵の所で死に 物狂いの勉強をした。 1857(安政4)年には『百爾(ペル)築城書』を翻訳し ている。 大坂は一種のガラパゴスで、急がば回れ、江戸に出て器用に英語を やっていたら、福沢諭吉にならなかったかもしれない、そして「海防家」で資金 を稼いで慶應大学をつくった、と井田さんは冗談めかして話した。 『西洋事 情』にオランダ国の部があるのは一種のノスタルジー、短い「青春の蹉跌」の 証しだ、とも…。
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