社会主義国での冒険、ピアニストの幸運2014/06/28 06:35

中村紘子さんは、ショパン・コンクール以来の、演奏会やチャイコフスキー・ コンクールの審査員として行った、ソ連を始めとする社会主義国での旅行の冒 険のあれこれを語った。 旅行にいい条件はゼロで、ホテルも、飛行機も、演 奏会場も、設備が悪く、ひどく汚い、食事はまずかった。 例えばホテルのタ オルは、醤油で煮染めたような色をしていてガバガバ、顔を拭くと傷がつくよ う。 食事も、メニューは革張りで立派なのだが、ないものばかり、5種類し かない、野菜はピクルスに、腐りかかったじゃがいもとタマネギだけ。 レニ ングラードからドニエツクまでの飛行機、郵便物の中に二つしか席がない、 KBGか何かの付添と二人、雫が凍る寒さだ。 朝5時頃着いて、7時ホテルは まだ眠っている。 ボルガ河は、波形に凍っている。 朝飯もなし、ヒステリ ーを起こした。 夜7時からコンサートの予定だったが、こんな地の涯でピア ノは弾けないと言った。 すると、部屋にロマノフのプリンスみたいな男の子 が、バラの花束とチョコレートを持って現れ、「お疲れと伺いました」と。 演 奏会は明日です、今夜は観光、サーカスをご覧下さい、となった。 当時のソ 連で、ある花はカーネーション、それも演奏会で子供が渡してくれるのは1本 だった。 ブルガリアのソフィアに、ホテル・ニューオータニのオープンで行 った時は、英語で通訳したのが大統領に気に入られ、あとで部屋を埋め尽くす 800本ぐらいのカーネーションが届いた。 一般は1本なのに、権力者はタバ。  モスクワ五輪の前、モスクワ・フィルと共演した。 会場のチャイコフスキー・ ザールは楽屋のあらゆる鏡が割れている汚なさだったが、文化大臣とお茶をと、 壁をクルッと押したら、すばらしく綺麗な部屋で、白い大理石に赤い絨毯、バ ナナなども並んでいる。 話がなかなか終わらない。 満員の聴衆とオーケス トラはずっと待たされていた。 権力者は絶対だった。 そういう国々も、社 会主義が終ったら、つまらない世の中になった。 日本も、つまらない国にな った、突然変異(ハプニング)がない。

年齢の問題。 ピアノを弾くのは、スポーツと同様の面がある。 昨日、一 昨日と、レコーディングをしていた。 7~8時間、演奏をする。 関節がガチ ガチになって、スポーツ・マッサージや鍼治療を受ける。 長年一つ年下の先 生のお世話になっているのだが、先に辞めないでと冗談を言っている。 あと、 何年出来るか。 ホルショフスキーは、100歳近くまで弾いた。 長生きも芸 の内、ルービィンシュタインも90歳ぐらいまで弾いた。 75,6歳がだいたい のところだとすると、あと数年か。

ピアニストは幸運で、一生かかっても弾ききれない難曲、名曲がある。 演 奏会があるから、つねに新しいことを勉強していなければならない。 受験生 のようだ。 永遠に勉強していなければならず、それがエネルギーの素にもな っている。 20歳ぐらいの時は、今晩演奏する曲を暗譜できた。 今は、そう はいかないが、大脳生理学の問題なので、気楽に行こうと思っている。 10代 に勉強したものは、何十年経っても、パッと出てくる。 子供の時が、大切だ。  幼児教育に脳の臨界期というのがあって、脳ミソに詰め込まないとダメなのだ。  スペインのアルベニスは1歳でデビューしたといわれ、後に大作曲家になった。  ショパンは7歳で「ポロネーズ第11番」を作曲したが、それは既に隅から隅 までショパンである。 才能があれば、大きく育つ。 北欧など経済的に安定 した国では、大芸術家が育たないところがある。 日本もそうで、生活がいい と、小さい頃から稽古をしない。 何とか、日本を盛り上げたいものだ。

講演後、中村紘子さんに「紘」の字を、以前は八紘一宇の「紘」、糸偏に片仮 名のナとムと言ったが、最近はパソコンで「中村紘子さんの紘子と打つと出る」 と説明していると話した。 加藤紘一さんが「紘の会」をやろうというので十 人ほどで集まったことがあったが、加藤さんの事情(いわゆる加藤の乱か)で 立ち消えになったそうだ。