郡司元大尉と日露戦争、カムチャツカ(1)2014/06/12 06:35

 郡司成忠(しげただ)大尉の1893(明治26)年からの千島探検と千島列島の最北 端、カムチャツカ半島に面した占守(しゅむしゅ)島での拓殖活動について、舟 川はるひさん(日露交流史研究家、ユーラシア研究所研究員)の講演「郡司大尉 の千島開拓」を聴いて、この日記に書いた。 2012年2月21日~23日の「郡 司大尉一行、ボートで千島探検へ」、「千島列島の最北端、占守島での拓殖活動」、 「報效義会、北洋漁業発展の端緒を開く」である。 その最後のところは、以 下のようになっている。

 「1904 (明治37)年6月、占守島に入港した漁船によって日露の開戦を知る。  漁船船長からカムチャツカで拿捕された漁船の救出を依頼され、郡司成忠ら義 会員がカムチャツカに渡航する。 そして郡司成忠と小田直太郎(医師、幸田露 伴の仲人)が捕虜になったとの知らせを受け、残留していた義会員は9月29日 占守島を引き揚げる。 日露戦争をきっかけに、第二次報效義会の活動はやむ なく終焉を迎える。  郡司成忠は、ロシアの収容所から小村寿太郎に手紙で依頼し、日露講和条約 の11条に「ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本に行使せしめ得る」という条 項を入れることに成功、日魯漁業、大洋漁業、日本水産など大会社が進出する 道を拓き、北洋水産業の発展に貢献したのであった。」

 郡司成忠が日露開戦を知り、捕虜になるまでの顛末を、舟川はるひさんが「郡 司大尉のカムチャツカにおけるミッション―日露戦争史のひとこま―」(『ユー ラシア研究』第50号・2014年5月)という論文に書かれた。 一般に郡司は 日露戦争時、カムチャツカに武力侵攻をしたと信じられてきた(浅田次郎氏が 『終わらざる夏』で描いたように)。 郡司は、戦前、これぞ愛国の鑑と持ち上 げられ、戦後は一転して無思慮の愚者とされた。 実際はそのどちらでもなか ったことを伝えたいと、ずっと思ってきたというのが、舟川さんの論文執筆の 動機である。

 論文をかいつまんで、紹介したい。 日露戦争の期間を通じて、カムチャツ カで日露間の戦闘はなかったというのが、日本での一貫した歴史認識だが、ロ シアでは郡司が部隊を率いてカムチャツカに上陸しロシアの義勇軍と戦い、32 名の戦死傷者を出し、郡司は捕虜になったとしている。 郡司成忠は、軍籍離 脱後の1893(明治26)年に北千島の防衛と拓殖を目的とした開拓団、報效義会 を組織し、1896年から占守島に57名の同志と移住した元海軍大尉である。  『日本外交文書』は、日露戦争時郡司が報效義会員と共にカムチャツカに上陸 した一件を記録しているが、彼等を正規軍ではなく義勇兵と見なしている。 舟 川さんは、日露双方の当事者の証言から、カムチャツカで起きた「戦闘」とは 何だったのかを検証し、そこから郡司のカムチャツカ上陸の真意を探っている。

 日露戦争の宣戦布告は1904(明治37)年2月10日で、事実上の戦争はその2 日前から始まっていた。 しかし、電信施設のないカムチャツカに開戦の知ら せが届いたのは、約3ヶ月後の5月4日で、守備兵不在の現地ペドロハヴロフ スク郡長官は、義勇軍の組織に着手する。 同じく電信施設のない郡司の占守 島では、カムチャツカより23日遅い5月27日に片岡湾へ入港した三重県鳥羽 町の帆船鳥羽丸が持ち込んだ、内地の新聞で知ることになる。

 ロシア側ではカムチャツカ沿岸にやってきた帆船はすべて拿捕し、乗組員は すべて殺せという命令が出ていて、早速5月28日にはボリシャヤ河口で漁を していた日本漁船が襲われ、13人の漁夫が射殺され、その2日後にも同じ場所 で帆船が襲撃され、乗組員全員が殺害された。 だが、その情報は占守島にも 日本政府にも届いていなかった。 敵情を知る必要を考えた郡司は、会員18 名と共に鳥羽丸に乗り、カムチャツカの西海岸オゼルナヤに上陸、偵察に努め たが、情報が得られなかった。 その北方15kmにあるヤヴィノ村から、飢餓 に苦しみ、重病人も出ているという要請があり、7月28日に郡司は医師の小田 直太郎、通訳の沢田三郎、岡野新吉と非武装で現地に赴く。 それは罠で、郡 司らは捕虜となり、オゼルナヤ川の漁舎は襲われて漁夫15名が殺された。 鳥 羽丸船長山岡才三郎と乗組員16名は、無事日本に帰還し、新聞数紙に事件の 顛末を語った。