昭和の思い出、戦前から戦争直後2014/06/16 06:33

 第二に『86歳ブロガーの毎日がハッピー毎日が宝物』で特筆したいのは、昭 和の思い出、それも戦前から戦争直後にかけての思い出である。 終戦(敗戦 と言わなかった)時、私は4歳で物心がついたばかりだったのに、美海・繁野 美和さんは芳紀18歳になっていらっしゃった。

 美海さんが小学生だった昭和10年前後、秋の運動会は町の一大イベントだ ったという。 人口2万人の町の真ん中に小学校が位置して、生徒数が2千人 というのに驚く。 子どもは4~5人が普通で、8人という家もある子沢山だっ た。 オムライス、カレーライス、海老フライのデパート8階大食堂は、子ど もにとって特別の場所だったが、その庶民のささやかな幸せの思い出は、昭和 12年から13年ごろまでだったという。

 女学校に入学した昭和15年には、そろそろ物資が不足し出して、入学して しばらくは制服が間に合わず、私服で通学した。 阪神間という土地柄か、ユ ニークな洒落た服を着ていた子もいた。 女の子にとっては戦前の最後の華や かな時代だったそうだ。

 昭和初期の朝食は和食、お茶の間の真ん中の卓袱台を囲んで家族が揃う。 ね えやはちょっと離れて箱膳で、みんなのお給仕をしてくれた。

 小学3年の担任の先生は28歳の予備軍人で、美しい奥様と可愛い坊やがい らした。 日米開戦となるや召集令状が来て、校庭での壮行会では「男子の本 懐」と意気軒昂でおられた。 教え子が集まって、大好きだった先生のために 日の丸に寄せ書きした。 シンガポールで小隊長として先頭に立って突撃し、 名誉の戦死を遂げられた。 開戦初期のことで贈った日の丸が、遺品として還 り、小学校に飾られた。 美海さんは、複雑な思いで自分の字を見たという。

 戦争末期に学徒出陣の決まったお兄さんが、美海さんの学校(新島襄の創っ た女子大だと思う)の寮に来て、京都の町中に行こうと誘った。 「好きなも のを買ってやるよ」と言って、オルゴールと陶製の熊を買ってくれた。 お兄 さんはさっさと帰り、美海さんも特別なことは何も言わなかった。 暢気そう にしていたけれど、美海さんだって解っていたのだ。 形見のつもりだという ことを。 お兄さんは、あと少しで外地に派遣されるところで敗戦となり、終 戦後1ヶ月してぼろぼろの軍服姿で無事帰ってきたという。

 昭和20年は学徒動員で、京都郊外の軍需工場で働く日々が続いた。 旋盤 とグラインダーで、飛行機のエンジンの弁をつくった。

 敗戦の日、玉音放送を聞き、18歳の少女はともかく「生き残った。空襲も機 銃掃射もなくなった」と先ず思った。

 1年半後卒業して、まだ疎開したままの実家があった農村に帰った。 街道 筋に家があり、その街道の先に進駐軍の基地があって、ジープや軍用トラック がよく走っていた。 夏で美海さんがワンピース姿で一人歩いていると、軍用 トラックが通り越した。 幌付きで十数人の兵隊が乗っていた。 美海さんを 追い越した少し先で急停車したのを見た途端、美海さんは危険を感じて脇道に 逃げた。 眼の端にトラックの後部から兵隊たちが飛び降りてくるのが見えた。  もう必死に走った。 街道筋の家の裏伝いに逃げて、一つの納屋の陰に身を隠 した。 表の道を駆ける軍靴の足音と互いに掛け合う大声が聞こえ、家々の戸 を開けては捜している気配が恐ろしかった。