皇后さまと「五日市憲法草案」2014/06/03 06:31

 昨年10月、皇后さまが誕生日を前に、宮内庁記者会の質問に対する文書に よる回答で、憲法について、つぎのように述べられた。 ずいぶん、はっきり とした勇気ある発言だと、驚いた。 宮内庁のホームページから引いておく。

 「5月の憲法記念日をはさみ、今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな議 論が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れ ながら、かつてあきる野市の五日市を訪れた時、郷土館で見せて頂いた「五日 市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治 22年)に先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ね て書き上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由」の保障及び 教育を受ける義務、法の下の平等、更に言論の自由、信教の自由など、204条 が書かれており、地方自治権等についても記されています。当時これに類する 民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きま したが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の 未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た 19世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するもの として、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。」

 「五日市憲法草案」、名前しか聞いたことがないので、調べてみる。 昭和 43(1968)年五日市(現、あきる野市)の深沢家の土蔵で、色川大吉東京経済 大学教授らによって発見された。 人権意識の成熟度において、明治初期につ くられた私擬憲法の中で屈指のものとされ、民衆憲法として反響を呼び起こし たという。 自由民権運動が高まり、明治13年11月10日第二回国会期成同 盟大会が東京において開かれ、その際、憲法起草が議され、翌明治14年10月 に予定された第三回大会に、各自草案を持ち寄ることが決議された。 五日市 の民権家たちは、勧能小学校訓導の千葉卓三郎(起草者といわれる)を中心に 学習結社、五日市学芸講談会に集い、私擬憲法草案の作成に当った。 学芸講 談会の会員39名は、名主や組頭家の跡取り息子が多く、年齢は20代以下が四 分の三を占めている。 大地主は3,4名、あとは中農、土地を全く持たない者 もいた。 五日市だけでなく、周辺の村々、青梅、八王子、横浜などからも参 加している。 その土蔵で草案が発見された深沢家は、深沢村の名主で、名生 (なおまる)、権八の親子、有力な山持ちで、千人同心の株も持っていた。 そ の土蔵には、大量の書籍があり、当時東京で出版された新刊書の7,8割は揃っ ていたという。 親子で千葉卓三郎を高く評価していたらしい。