末盛千枝子さんの「卒業五十年」2014/07/08 05:20

 当日記4月11日「末盛千枝子さんの「千枝子という名前」」、12日「同じ時 代の育ち」でご紹介した末盛千枝子さんの『波』連載「父と母の娘」だが、6 月号の第三回からは「卒業五十年」という題の文章になっている。 4月1日 の入学式に招かれてはいたが、多用でなかなか出席の決心がつかなかったのを、 そうだ、最初の一年を過ごした日吉のキャンパスに行って、あの「塾歌斉唱」 をしたい、という気持ちが突然わきあがった、という。 大学時代というのは、 まさに青春そのものだった、として、ご両親が出席された昭和35年の入学式 の思い出から始まる。 「当時の塾長は奥井復太郎という、いかにも学者然と して、厳しそうだったが美しい人で、式辞も格調高いものだった。父は、あの ような先生のおられる学校で娘が学ぶのだと感動していた。」

 それを読んだのは、ちょうど優勝をかけた早慶戦の一回戦の日だった。 私 は、末盛さんにメールを打って、富田正文作詞、信時潔作曲の「塾歌」を歌う と、涙が出そうになることがあり、毎年1月10日に三田である福沢先生誕生 記念会がおすすめだ、と書いた。 奥井復太郎塾長は、三田で一時限にあった 「都市社会学」を受講した。 江戸が東京に変わり、腰弁(サラリーマン)が 誕生してから、関東大震災のあたりまでの話だったのを、折に触れて(例えば、 落語を聴いていて)思い出す。 奥井さんの息子さんは、志木高の数学の先生 で主事(教頭)をなさっていた。 塾長が志木に来られた時、「ウチの泰夫」と おっしゃったので、われわれ悪童は「ウチの泰夫」と呼んでいた。

 脱線した。 末盛千枝子さんは入学後、カメラクラブとカトリック栄誦会に 入った。 カメラクラブは続かなかったようだが、カトリック栄誦会は末盛さ んに不思議な安心感を与えたという。 沢田神父という方が、静かだけれど強 い口調で「愛はすすめではなく、掟です」と言われ、全身を電気が走るようだ った。 キリスト教徒であるとはどういうことかを深く突きつけられた。 基 本的には愛なのだということを。 私は、以前から、幼いお子さん達を残して の末盛憲彦さんの突然死、ご長男の難病、再婚相手のご病気など、末盛さんの 度重なる苦難に対する強さのもとに、カトリックの信仰があるのではと考えて いたが、そのあたりがよくわかったような気がした。

 カトリック栄誦会の読書会で、会の先輩である遠藤周作さんが出版されたば かりの『聖書のなかの女性たち』や『おバカさん』を読んだという。 一年生 の初夏、『おバカさん』の感想を話し合っていた時に、上級生が、突然末盛さん に「トモエ」とあだ名をつけた。 作中、「トモエには男がわかっていない」と いう一文があった。 そのとき集まっていた上智大学構内の芝生の手触りを今 も鮮やかに思い出す、という。 それ以来、末盛さんは仲間から、「トモエ」と 呼ばれ続け、昨年亡くなった、二番目のご主人も最後まで「トモエ」と呼んで いたそうだ。

 私は、未読の遠藤周作著『おバカさん』を読んでみることにした。