なぜ多摩の五日市で憲法草案ができたか2014/07/12 06:36

 6月3日に「皇后さまと「五日市憲法草案」」、4日に「明治14年、日本の曲 り角」を書いた「五日市憲法草案」だが、昭和43(1968)年五日市(現、あ きる野市)の深沢家の土蔵で、色川大吉東京経済大学教授らによって発見され た、と書いた。 発見から2年、昭和45(1970)年に当時の興奮をよく伝え る本が出ていた。 色川大吉・江井秀雄・新井勝紘著『民衆憲法の創造―埋も れた多摩の人脈―』(「人間の権利」叢書6、評論社)だ。 この本も、世田谷 区立中央図書館の保存庫にあった。 第一部 埋もれた多摩の人脈(色川の講演 記録)、第二部 民衆憲法の創造(色川・江井・新井の共同研究)で構成され、 第二部には沢山の貴重な史料と解題が付属している。

 なぜ多摩に、私擬憲法草案を作成するような人たちがいたのだろうか。 三 多摩は明治26年までは、今の三鷹まで神奈川県に入っていたのだが、幕府の 天領の地域が非常に多く、伊豆韮山の江川太郎左衛門などの代官の支配下にあ った関係で、普通の藩とは違った特徴を持っていた。 八王子には八王子千人 同心がおり、とくに幕末期に官軍に抵抗して、甲陽鎮撫隊が日野から甲州街道 沿いに甲府にかけて戦闘配備され、多摩からかなりの農民隊が動員された。 明 治維新になって、薩摩や長州の地侍が江戸へやってきて政権をつくったが、文 化的には田舎者ではないか、自分たちは徳川幕府の臣のもとで長いこと江戸を 中心とした文化圏に住んでいたんだ、素直に新政府についていけない、新政府 なにするものぞ、という気概が、この地域には横溢していた、というのだ。

 色川大吉さんは、明治の文学者で思想家の北村透谷(1868~1894)を研究し ていた。 北村透谷は十代後半、八王子を中心に、川口、鶴川から小田原にか けてのあたりを放浪して、その思想形成期にいろいろな体験をしている。 そ の体験をよく理解しないと、北村透谷の本当の意味がわからないらしいという ところから、三多摩地方の研究に入ったという。

 調査を進めるうちに、透谷とは無関係の人で、しかも非常に興味のある人間 が、沢山いるということがわかってきた。 その10年ぐらいで、名簿の上で 300人ほどが、浮かんできた。 武士ではなく、一般の農民、商人、当時の言 葉で豪農、豪商といわれる、やや生活に余裕のある人々だ。 ただ仕事ばかり しているのでなく、その余暇に色々学問したり、青年に教えたり、あるいは遊 芸の道を修めるというような趣味人、文人であった。 そうすると、たとえば 南多摩郡だけでも、日本全体に紹介しても非常に面白い、ある意味で時代の特 徴をよく示していると思われる人物の名前が十数人上がってきた。 たとえば 北の方では、武蔵五日市の周辺に五日市グループとでもいうような青年グルー プがあった。 いわば本当の意味での明治人、幕末に生れ、明治の時代に教養 を身につけた、そして日本の近代国家が出来上がる頃に、自分も一人前になる というような青年のグループが、五日市にまず発見されたのだ。