長崎の海には炭鉱があった2015/04/24 06:56

 「ブラタモリ」、石炭の島に魅せられて、3年住んでいたという、写真家の小 島健一さんの案内で、平成13年まで操業していた九州最後の炭鉱、池島炭鉱 へ行く。 池島、もともとあった池を、開削して海につなげて港とし、高低差 を利用して良い石炭とボタを選別処理して、積み出した。 今も200人が住む。  昭和27年に開発され、最先端技術で、海外の安い石炭に対抗した。 昭和60 年には、全国3位の153万トンを生産、高カロリーで良質、製鉄や火力発電に 使われた。 炭住、60棟のモダンなオーシャンビューのアパートが建っていて、 昭和45年には8,000人が住み、日本一の人口密度といわれた。 出荷できな い小さな石炭を使った火力発電所があり、電気と蒸気をつくり、炭坑やアパー トに配管で供給していた。 8階建のアパートにエレベーターはなかったが、 高低差を利用し、裏から5階に入れるのだった。

 「御安全に」(「こんにちは」と同じに使う)の看板のある通勤路を通って、 「立坑」地下への入口へ。 女神像の目線は海を見ている、その先は3キロ離 れた向うの島、松島だ。 海底の地下を這う坑道の総延長は96キロ、掘り出 した総面積は琵琶湖の半分以上という。

ピッケルを持った元炭鉱マンの施設ガイド若葉谷三秋さんの案内で、坑内に 入る。 まず、仕事を終えほっとする場所、200人入れる巨大浴場、蒸気で沸 かす。 8時間勤務の入坑時、繰込場で、最後の煙草を喫う。 坑内は絶対禁 煙、炭塵やガスで爆発するからだ。 13年前まで、スカイツリーと同じ分速 600メートルのエレベーター(30人定員)で、650メートルを降りた。 さら に6キロを電車に乗り、マンベルトという動く道で進む。

今回は、トロッコで炭鉱に入る。 坑内に行く身支度をして、「繰込み体操」 をし、左手を腰、右手で指差呼称をする。 「ゼロ災で行こう! よし! 御 安全に!」 笛と、サイレンでトロッコは発車。 終点から、採炭現場までは 歩き、ロードヘッダーという大型機械で採掘するのだが、一日5千トン。 そ れ以前は、削岩機で穴を開け、ダイナマイトで破砕していたという。

通勤路の立入禁止看板に三井松島リソーセス、エンドロールの協力に三井松 島産業の名があった。 長崎の近代化、造船は三菱、炭鉱は三井、両財閥によ るものなのであった。

と、ここまで書いたところで、後藤象二郎と福沢<等々力短信 第1014号  2010.8.25.>に、三菱の炭鉱もあったことを書いていたので引いておく。

 「佐賀藩とイギリスのグラバー商会が共同でわが国最初の洋式炭鉱として開 発した高島炭鉱を、明治6年新政府が買収、官有とし、明治7年後藤象二郎に 払い下げる。 後藤はその時、ジャーディン・マセソン商会から代金と運転資 金を借り入れたが、経営が放漫であったため利益が上がらず、負債が累積して、 商会から返済を求める訴訟を起こされる。 福沢は後藤の政治的資質を惜しみ、 放漫経営による経済的破滅を心配して、高島炭鉱の経営を三菱に移すことを良 策と考え、岩崎弥太郎にも提案する。 その時はまとまらなかったが、1年9 か月の曲折を経て、明治13年7月、岩崎は炭鉱の買収を決意する。 三菱の 経営で、高島炭鉱は巨額の利益をあげるようになった。」

 さらに三菱重工業長崎造船所については(高島炭鉱も)、福沢門下の荘田平五 郎の功績を下記のブログでも触れていた。 財閥の改革者、三井の中上川と三 菱の荘田<小人閑居日記 2012. 12. 4.>、荘田平五郎の人物、慶應から三菱へ <小人閑居日記 2006.12.16.>、荘田平五郎と三菱の経営近代化<小人閑居日 記 2006.12.17.>。