『鉢の木』の佐野は群馬県 ― 2017/12/29 07:21
16日に「中根東里と司馬遼太郎の栃木・佐野」にこんなことを書いた。 司 馬さんは敗戦の数カ月前、栃木・佐野の小学校に駐屯し、付近の山々に穴を掘 って戦車をかくしたりする作業中、しきりに謡曲の『鉢の木』のことをおもっ た、という。 鎌倉のむかし、無名の旅の僧(実は北条時頼)のために宿をし、鉢の木を焚 いて暖をとらせた牢浪の佐野源左衛門尉常世のことである。 源左衛門尉がわ び住まいしていた佐野とはこの土地ではないかと思うと、まわりの山河が泌み 入るように愛おしくなった。 その後、場所については異説があることを知ったが、この時期はこここそ“佐 野のわたりの雪の夕暮”のあの佐野であると思いこんでいた、と。
すると、私がいつも拝見している家内の中学の同級生のブログ「マーちゃん の数独日記」に12月19日「深谷に宿泊し、佐野橋を渡る」が出た。
http://blog.goo.ne.jp/dora0077/e/bb292a3f450aa62bd38e1cf42754325f
司馬さんが、「場所については異説があることを知った」のは、おそらく、こ の群馬県の佐野(今は高崎市に入る)で、『広辞苑』で さの【佐野】を見ると、 (1)群馬県の地名、(2)和歌山県の地名、(3)栃木県南西部の市、という順 番になっている。 (1)は、「群馬県の地名(今は高崎市に入る)昔は、その 地の烏川に船橋があって、「万葉集」の佐野の船橋の故地と伝え、佐野の渡りと いう。また、能「鉢木」の佐野源左衛門尉常世の邸跡という。(歌枕)」とある。 ちなみに、(3)は「栃木県南西部の市。もと日光例幣使街道の宿場町、渡良瀬 川水運の要地。広幅綿縮(佐野縮)の産地。人口12万4千」。 テレビで宣伝 をよく見る、佐野厄除け大師の惣宗寺は、こちらだ。
『広辞苑』といえば、辰濃和男さんに教わった「それ引け、やれ引け、広辞 苑、ご利益あるまで引き続け……」を紹介したばかりだから、ちょっと続けて みよう。
ふなはし【船橋】多くの船を並べ繋ぎ、その上に板を渡して橋としたもの。 うきはし。万葉集(14)「かみつけの佐野の―取り放し親は離(さ)くれど吾 (わ)は離(さか)るがへ」
かみつけの【上毛野】⇒けの(毛野)参照。
けの【毛野】(江戸時代には誤読してケヌとも)上野(こうずけ)・下野(し もつけ)両国の古称。はじめ上毛野(かみつけの)・下毛野(しもつけの)と書 き、715年(霊亀1)に諸国の国名を2字と定めてから、上野・下野と記した。
こうずけ【上野】(カミツケノ(上毛野)の略カミツケの転)旧国名。今の群 馬県。上州。
しもつけ【下野】(シモツケノ(下毛野)の略)(1)旧国名。今の栃木県。 野州(やしゅう)。
というわけで、『鉢の木』の佐野は群馬県だということがはっきりした。 メ ールをすると、「マーちゃん」が「佐野のわたし駅」や「常世神社」で撮った写 真を送ってくれた。 冒頭に掲げたのは、その一枚である。
コメント
_ 与志男 ― 2018/07/15 23:05
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私は知ってますよ、小幡の奥にその様な字名があるのを。
本日は鉢の木が上野か下野かという事でこの記事にぶちあたりました。
Wikipediaにさえイキナリ下野の云々との記述に怒りを覚えていたのである。鉢の木の出だしは上野の国佐野庄。ま、描写の都合で雪を降らせる為にスライドしたかもしれないが、[広辞苑で大昔には確認した]しかし、鉢の木に因んだ土産は栃木佐野で売られていた。
広辞苑で高崎あたりと読んだ私としては。でも、長らくそれには拘らなかったであろう群馬が上信に[佐野の渡し]駅を作った。
何だかな。私が知りたいのは歴史であって[商売の都合]ではない。
ネットでノイズが氾濫するといつしか定説になってしまう。
それだけはイカンと思うのです。