ペルリの恩〔昔、書いた福沢38〕2019/03/19 07:11

   ペルリの恩<等々力短信 第459号 1988.(昭和63).4.25.>

 ペリーの黒船が江戸に来たという、衝撃的なニュースは、たちまち日本中に 広がった。 九州は、今の大分県、中津という田舎の城下町でも、知らない者 はなかった。 そして、外国の軍艦に対抗するためには、砲術を学ばなければ ならぬ、という議論になる。 当時、砲術を学ぶには、まずオランダ語をやっ て、原書を読まなければならなかった。 前年7月、大統領の国書を手渡すだ け、足かけ9日の滞在で去ったペリー艦隊は、1854年2月(嘉永7年正月) 再び、その巨大な姿を江戸湾に見せた。 翌月、中津から、満19歳の若者が、 オランダ砲術取り調べのため、長崎遊学の途についた。 「人の読むものなら 横文字でもなんでも読みましょう」という自負を持つ彼は、田舎の中津の窮屈 なのがいやでいやで、そこを脱出できる嬉しさから、うしろをむいて、つばを して、さっさと駆けだした。

 その若者の名は福沢諭吉。 もし、ペリーの黒船が来なければ、福沢は、中 津奥平藩の同じような身分の士族の養子になって、お城の門番かなんかをしな がら、一生を送ったかもしれないのだ。 とすると、『西洋事情』も、『学問 のすゝめ』も、慶應義塾も、なかったわけだし、この一個の人物の出たことに よって、日本が得ることのできた多くのものが、失われていたかもしれない。  思えば尊し、ペルリの恩。

 万延元(1860)年、その前々年に締結された日米修好通商条約の批准書交換 のため、新見豊前守を正使とする使節団が、ワシントンまで行った。 一行は アメリカの軍艦ポーハタン号で渡米し、時を同じくして太平洋を渡った、有名 な咸臨丸で、満25歳になっていた福沢諭吉も、サンフランシスコまで行って いる。 使節団の副使村垣淡路守範正の『遣米使日記』に、大役を果たした一 行が、ニューヨークでペリー未亡人を訪問したことが記されている。(ドナル ド・キーン『続 百代の過客』上40頁) 大変威厳ある立派な老婦人で、皆大 いに感銘を受けたという。 「ペルリは我鎖国を開て和親を取結し大功を奏し ければ重く賞されけるが、三とせ先に身まかりしとぞ。こたび使節参りけるは 此人の功とてまた新しく唱(となえ)けるよし語ければ、はからずも此家に来 り、在りし世なればと云ければ、老婆涙ぐみて言葉もなかりけり」。 キーンさ んは「おそらくこれが、この旅の間に、日本人とアメリカ人との間に起こった、 最も親密な人間的接触だったのではなかろうか」と、書いている。 未亡人訪 問など、いかにも日本人らしいエピソードだが、使節団の礼儀正しさは、アメ リカの各地で、深い感銘を与えたのであった。