「天下」の意味、「五畿内」から「日本全国」へ2020/09/04 07:10

 近年の研究による織田信長のイメージ<小人閑居日記 2020.6.28.>で、金子拓(ひらく)東大史料編纂所准教授の、信長の「天下布武」についての論を紹介した。 「天下」は「五畿内」を意味し(「五畿内の領主が天下」と呼ばれる(フロイス))、「天下布武」は「天下静謐」将軍義昭が五畿内を穏やかに治めていることを意味する。 京都を中核とする空間が「天下」、「天下布武」は将軍が安んじて京都にいる状態を実現しようとするスローガン。 「天下」が将軍によって治まっている状態を目指したが、諸大名は争っていて、そうではないので、武力によって実現しようとした。 信長は、将軍のサポート役、真面目なものだ、と。

 この「天下」が初め「五畿内」を意味したというのは、近年の通説になっているようで、渡邊大門さんの『清須会議』でも、そう言及され、日本全国を意味する「天下」に変わるポイントが考察されている。

 天正14年9月、秀吉は京都の大内裏跡に聚楽第を築いて、大坂城から移り、後陽成天皇に譲位した正親町天皇が秀吉の造営した新御所に入った。 同時に、秀吉は太政大臣に就任し、「豊臣」姓を下賜された。 関白は令外官(律令の令に規定されていない官)だったので、秀吉は太政大臣に就任することにより、公家の頂点に立った。 さらに、秀吉は近衛前久の娘・前子(さきこ)を猶子とし、後陽成天皇に入内させた。 秀吉は天皇の外戚になったが、そこには周到な準備があった。 天正16年、後陽成天皇が聚楽第に行幸した際、秀吉は諸大名に対して、天皇と自身に忠誠を尽くし、臣従することを誓約させたのだ。 秀吉は、一気呵成に朝廷を取り込むことに成功し、朝廷を利用することにより、自身の権力を強化したのだ。

 天正15年5月、九州の島津氏を屈服させた秀吉は、全国支配に意欲を見せる。 それ以前から太閤検地、刀狩などの諸政策を実行していたが、重要なのは大名統制の方法だった。 関白、太政大臣、豊臣姓を得ると、公家や配下の武家を統制するため、官位を用いて序列化などを試みた。 目に見える形での統制を目論み、天下人としての威勢を知らしめようとしたのだ。

 天正16年8月に発給された島津義久の書状(琉球・中山王宛)には、「天下」の語が用いられている(「島津家文書」)。 この場合の「天下」は、文脈から日本全国を指すことが指摘されていて、これを嚆矢として、大名層のなかでは、この頃から用いる例があり、徐々に「天下」が日本全国を意味するものとして使われるようになった。 江戸時代初期になると、「天下」は京都や畿内を意味しなくなる。 秀吉の時代において、「天下」の語義を確定することは困難だが、おおむね天正18年の小田原征伐後を機にして、秀吉の意識のなかでは、「天下」=「日本全国」という意識があったのではないかと、渡邊大門さんは考えている。