戦争を知る政治家がいなくなった<等々力短信 第1135号 2020(令和2).9.25.>2020/09/25 06:57

 ブログ・タイトルの轟亭(ごうてい)は、パソコン通信時代のハンドルネームに由来する。 当時等々力は、ロッキード事件の児玉誉士夫の豪邸がニュースにしばしば登場していた。 発信地のわが家はウサギ小屋だが等々力なので、轟亭を名乗ったのだった。

児玉誉士夫の名を、8月9日のNHKスペシャル「渡辺恒雄 戦争と政治~戦後日本の自画像」で久しぶりに聞いた。 1959年、岸信介、大野伴睦、河野一郎、佐藤栄作と総裁を回す密約があり、その原本を児玉誉士夫が持っていて、大野伴睦番だった渡辺恒雄さんが見た。 だが大野伴睦は総理になれず、「あの虎みたいな人が、ううっと泣く」。 生臭い人情が政治と外交を動かしていて、政治記者は、「書くな」と言われたことは書かず、大丈夫と信頼されるまでの懐に入って、当事者にならないと書けない。

 読売新聞社主筆室には「義理と人情とやせがまん」の伴睦の書、机の後ろの自ら整理しないとわからなくなる「北朝鮮」「トランプ」「ロシア」等の資料棚、暴漢が入って来た時用の刀(竹光)、召集された時も携えたカントの『実践理性批判』(岩波文庫)ほか沢山の本が並ぶ書棚がある。 1926(大正15)年東京生れ94歳、11歳で日中戦争、軍国主義への反発は中学からあり、在学中太平洋戦争が始まる。 高等学校(東京高校)は軍国主義でなく、自由主義の本場だった。 校長から軍国主義が始まったから、一斉蜂起、「東高踊り」を見物に来た校長以下を棒でぶん殴った。 お国のために、こんな戦争はやめさせなきゃいかんという信念だから、忠君愛国なんて言っても駄目だ。 1945(昭和20)年4月東京帝国大学文学部哲学科に入り、2カ月後に召集、前夜後輩に葬送で流すチャイコフスキーの「悲愴」を聴かせ、母の頂いてきた十何神社かのお守りを焼いて、死ぬ覚悟をはっきりさせた。 陸軍砲兵連隊二等兵、「内実なき精神主義」「戦前日本の病理」を見た。 上陸してくる敵を撃つ、十糎(サンチ)榴弾砲、木の弾しかなく、実弾は終戦まで配給されなかった。 何もなくては勝てるわけがない。

 東大に復学、体制の抜本的改革が必要だと、日本共産党に入党したが、個人より組織を重視する党本部と激しく対立、除名処分を受ける。 1950年大学院を中退して、読売新聞社に入社、52年吉田茂総理番となる。 吉田は日独防共協定に反対して軍部と対立、戦争末期には極秘に終戦工作をして、憲兵隊に捕まり留置場に入った、反戦、反軍の人。 軍の横暴、独裁政治の悪を、身に染みてわかっているわけだ。 あれだけ人を殺して、日本中を廃墟にした、その連中の責任を問わないで、いい政治ができるわけがない。 渡辺恒雄さんは、「政治家と戦争の関わり」を「記者の座標軸」に、憲法改正試案(1994年)や、「検証 戦争責任」の連載(2005~6年)をしてきた。

山崎正和さん、社交による人間関係2020/09/25 07:00

 福沢諭吉は、societyを人間交際(じんかんこうさい)と訳した。 ならソーシャル・ディスタンスは、人間距離(じんかんきょり)だな、と思う。 福沢は、学問(実学=実証科学(サイヤンス))で身につけた個人の独立を、活発なコミュニケーションによる「人間交際」(社交)を通じて、国の独立に結びつけることを説いた。 言いかえれば、自分たちで考えて動かす本当の「市民社会」をつくれるかどうかが、日本の行く末を握る鍵になるということだろう。

 劇作家で、文明批評をよくした山崎正和さんが、8月19日に悪性中皮腫で86歳で亡くなった。 文章を読んで、なにか気になる人だった。 訃報や評伝を読む。 代表作『柔らかい個人主義の誕生』(1984年)の中で、知識集約型産業が中心となる「脱産業化社会」では、人々はモノではなく、時間を消費し、他人に自らを表現する社交を楽しむようになると予言。 吉野作造賞を受賞した。 また、グローバル化の進展で国家などの組織が衰退する中で、個人に心の居場所を与えるものして社交による人間関係を重視した『社交する人間』(2003年)などで社会と人間のあり方を読み解いた。

 山崎流の社交の姿は、創設から30年以上関わり続けた「サントリー学芸賞」に表れていた。 学際的な志向を持つ若手学者の著書を思想傾向にこだわらず顕彰した。 受賞者の多くは今の主要な文化人になっている。 それは日本にありがちな学閥ではなく、知的で適度な距離を保っていた。

 1995年の阪神・淡路大震災では西宮市の自宅で被災したが、「おにぎりも大事だが、だからと言って文化を忘れてはならない」と主張、自粛の雰囲気が広がる中、上演予定だった翻訳劇の資金集めに奔走した。