米山光儀教授の「福沢諭吉と社会教育」2021/01/15 07:01

 山名次郎が明治25(1892)年、最初に「社会教育」の名を冠した『社会教育論』という本を出した。 その前に、福沢は山名の「社会教育論」を『交詢雑誌』で見て、『時事新報』への掲載を打診したが、山名は単行本で出すからと断った。 福沢は山名の「社会教育論」に一定の評価をしていたことになる。

 福沢は明治10(1877)年、三田演説会で「人間(じんかん)社会教育」と、「社会教育」という言葉を最初に使った。 学校の教育のみでなく、一事でも人に実事に当らせろ、百度の講釈(?)よりも一度だけでも家を建てた大工の方が物がわかっていると、社会の教育力に注目している。 『学問のすゝめ』でも『文明論之概略』でも、「社会」を「人間(じんかん)交際」と言っているが、『学問のすゝめ』の最終17編で「社会」を初めて使っている。 明治10年は、「人間交際」と「社会」の使用の過渡期に当たる。 福沢の「社会教育」は、学校のみでなく、社会経験にもとづく自己教育を意味する。

 昭和18(1943)年に『福沢選集』12巻が計画されたが、『経済論集』だけ刊行され、小林澄兄(すみえ)が編んだ『教育論集』は刊行されなかった。 戦後、小林澄兄は『新教育と福沢諭吉』を出版し、その中に『経済論集』の「解題」が収録され、学校だけでなく、家庭や社会、社会は大教場であるという福沢の「社会教育」に触れている。

 慶應義塾では、明治11(1878)年に講義所で福沢の『文明論之概略』の講義が行われ、塾外の人でも1円の聴講料で聴くことのできる、公開講座のようなものがあった。 それ以前からの三田演説会も、塾外の人も聴けたから、「社会教育」の役割を果たしていた。 明六社は知識人のソサイエティで、議論をして、雑誌や講演で知を広める活動をした。 明治13(1880)年に出来た交詢社も、アソシエーションで、メンバー相互の議論知識を、外にも演説会や雑誌で広めた。

 山名次郎『社会教育論』の「社会教育」は、国家教育とは別のもので、社会が教育機能を持たないと、学校の教育も広がらない、とする。 社会の教育力を認め、学校や家庭の教育を完全にするためには「社会教育」が必要だと主張した。 福沢は「国家教育」という言葉は使わない。 官による教育、政府による教育。 山名次郎が尊敬したのは、福沢諭吉と文部大臣をやった森有礼(森はよく「国家教育」を使った、山名も森と同じ薩摩出身)だった。