兼六園から金沢城公園へ、「加賀百万石はどう守られた!?」2023/10/27 07:04

兼六園の山査子(サンザシ)

 「折口信夫・春洋父子の墓」から、折口信夫・池田弥三郎記念講演会の話に脱線したが、福澤史蹟見学会「慶應義塾と金沢」の二日目は、いよいよ兼六園と金沢城の見学で大団円を迎えた。 兼六園は、証明書を示すと65歳以上無料なので、一行の中で入園料が必要だったのは5名だけだった。 小立野口から入って、金沢人大窪さんの解説を聞きながら、花見橋を渡り、菊桜なるものを見る。 花が咲いても、菊の花のような大きな花が咲くわけではないそうだ。 兼六園には、前にも来たが、巨大な日本武尊銅像を覚えていなかった、日本最初の銅像で、西南戦争で戦死した郷土軍人の霊を慰めるために、明治13(1880)年に建てられたという。 赤戸室石の雁行橋は、ハイヒールで磨り減ったため渡れなくして、横に橋がかけられたのだそうだ。 兼六園の顔、徽軫(ことじ・琴柱、箏柱)灯籠には、写真を撮るインバウンドの観光客が沢山並んでいた。 着物を着た女性もいるが、中国の人はほとんどいないようだった。

 石川門口から、石川橋を渡って、金沢城公園へ。 ここで、私は『ブラタモリ』を思い出した。 全国版初期2015年4月25日放送 #3「金沢」「加賀百万石はどう守られた!?」で、兼六園の噴水が「逆サイフォン」空気圧の原理で水を送っているのを、この場所で実験してみせたからだった。 慶長3(1598)年8月に秀吉が死去、慶長4(1599)年閏3月に前田利家が死去すると、9月前田利長に謀反の噂が出、その冬、徳川と前田の和睦交渉が始まる。 利家の妻まつが徳川の人質となり、慶長5(1600)年春、和睦に成功、前田は最大のピンチを脱する。

前田家は金沢を、徳川の攻撃に備えて、どのようにつくったか。 謀反の噂が出た前田利長は、徳川との戦争に備えて、慶長4年にキリシタン大名として知られる高山右近に命じて「惣構(そうがまえ)」をつくらせた。 1か月で造ったと伝えられている。 金沢城を中心とした城下町を囲い込んだ堀や、堀の城側に土塁(土居)を築いたこれが、「内惣構」である。 さらに三代藩主前田利常が慶長15(1610)年に家臣の篠原一孝(かつたか)につくらせたのが「外惣構」、金沢城の堀も含めると三重の防衛ライン、堅固な守りとなる。

『ブラタモリ』は、加賀百万石の城下町の繁栄を守った仕掛けを探り、まず長町武家屋敷跡からこの「惣構」の痕跡を探した。 豊臣秀吉が五奉行の上においた政権の最高機関である五大老(老衆(おとなしゅう))、5人の有力大名の関ケ原前後の石高をくらべると、徳川家256万石→400万石、前田家83万石→120万石、宇喜多家57万石→×、上杉家120万石→30万石、毛利家120万石→37万石と、大きくなって残ったのは徳川家と前田家だけだ。

 金沢の道は、70%が道幅は二間(3.6メートル)と、江戸時代の道幅が残っているという。 外道(そとみち)に沿い川(堀)があり、段差がある。 河岸段丘の上に土塁(8m~10m)が築かれ、内道があって、城の方向となる。 「内惣構」が全長3キロメートル、「外惣構」は全長7キロメートルに及ぶ。 その道や段差、つまり「惣構」の痕跡は、近江町市場の中でも、上近江町のスーパーの中でも確認できた。

 城へ向かうのには、北国街道の香林坊橋のところに、香林坊の木戸があった。

「外惣構」が出来てから21年後の寛永8(1631)年4月14日、民家から出火した火事が大火となり、金沢城を含む城下町に大被害をもたらした。 金沢城も焼け落ちた。 台地の先端に城を築いた金沢には、弱点があった。 犀川と浅野川、二つの川から水を取れないのだった。

 さっそく金沢城から11キロの犀川上流で取水して、台地のへりを通って、金沢城に至る水路の大工事を開始、大火の翌年1632年辰巳用水を完成したのである。 『ブラタモリ』では、兼六園の徽軫(ことじ)灯籠近くにある石畳が、用水の痕跡の石管であり、角の水の桝には水の通る穴が残っているのを見せていた。 兼六園(当時の竹沢御殿)と金沢城の二の丸の間には堀があり、石川橋がかかっている。 その部分、低地から高地へ、さらに低い場所を通って、「逆サイフォン」空気圧の原理で水を送っていたのを、実験でやってみせた。

 辰巳用水は、11キロ先の東岩取水口(金沢市上辰巳町)で取水し、台地のへりのトンネル部分が4キロに及ぶ。 辰巳用水の絵図に蒲鉾型の印が沢山あるのだが、トンネルを掘った時の横穴で、現在でも点検や落盤などの修理用に使われている。 横穴は30メートルおきに、139か所残っている。 その一つから高さ2メートルの水路にタモリが入って、100メートルほど歩いたが、岩盤をくりぬいたノミの跡が残っていた。 大変な工事だったろう。

 防火のために引かれた辰巳用水は、城下町の暮しを潤し、田畑を広げた。 380年前につくられた辰巳用水が、その後も、金沢の繁栄を支え続けたのである。

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