降伏した庄内、西郷隆盛の寛大な処置2024/01/12 07:10

 9月、新政府軍の拠点、秋田中央部の刈和野で、一進一退の攻防になった。 庄内軍は、新政府軍の増援に苦戦している折、9月11日酒井玄蕃が病気になり立ち上がれなくなった。 それでも輿に乗って進軍し、16日勝利した。 だが、12日には会津藩が降伏し、庄内藩主酒井忠篤(ただずみ)は降伏を表明した。 領地に攻め込まれる前に、戦いを終えようとしたのだ。

 9月25日、謝罪降伏か徹底抗戦かを協議する会議が開かれ、26日謝罪降伏に決定した。 酒井玄蕃も、藩主に従う。

 黒田清隆、西郷隆盛が鶴ヶ岡城に入城したが、処分は意外にも寛大なものだった。 藩主は自宅謹慎、誰の命も奪われず、刀を差しての外出も許された。 城下でも、新政府軍による略奪などなく、領民は通常の生活をしていた。 この措置を指示したのが西郷で、「士が兜を脱いで降伏した以上は、後のことは何も心配はいらぬ」とした。 会津は28万石が、斗南3万石に、という過酷な処分だったが、庄内は17万石が、12万石に。 転封も取りやめになった。 これは本間家と領民たち、庄屋たちの反対運動があり、本間家が5万両を新政府に献金したことで、方針転換となった。

 庄内の人々はこの寛大な措置に感謝していて、酒田市には西郷隆盛を祀る南洲神社がある。 荘内南洲会理事長、小野寺良信さんは語る。 庄内藩士3千名が失職し、どう生きたらよいかと、数次にわたり西郷のところへ留学生を送り、助言をもらった。 それで出来たのが、松ヶ岡開墾場で、明治5年刀を鍬に持ち替え、荒地を開墾、2年後311ヘクタールの桑畑とし、養蚕業を興し、日本有数の絹の産地となり、明治の日本経済を支えた。 大正15年12月、50周年記念の松ヶ岡開墾場綱領に、「徳義を本とし、産業を興して、国家に報じ、以て天下に模範たらんとす」とある、ここに賊軍という汚名を晴らした。

 酒井玄蕃は、明治政府の軍人となり、清国へ渡航、地理気候を始め軍事の探索を続け、清国と戦争になった場合の戦略を練った。 報告書に「戦ふの難きにあらず、戦に至るの難きなり」と、戦いを避けるべきとした。 明治9(1876)年肺病のため33歳で亡くなった。

 佐藤賢一さん…西郷は当初戊辰戦争に関わらず、最後の局面で乗り込んでいる。古い武士だった。

 森田健司さん…西郷は伝説的な庄内の名を残してくれた。転封の指令は2回出ている。1回目は明治元年12月25日、ちょうど鳥羽伏見の戦いの一年後だ。

 磯田道史さん…玄蕃の先生は家康。家康が小牧長久手でやったのと同じことをやった。清国調査のリアリズムは、徳川武士の奥深さだ。

 私は、酒井玄蕃が活躍する佐藤賢一さんの小説『遺訓』に関連して、いろいろ書いていた。
佐藤賢一さんの小説『遺訓』と鶴岡<小人閑居日記 2016.2.23.>
西郷隆盛の「征韓論」は「遣韓論」だった<小人閑居日記 2016.2.24.>
西郷と庄内を警戒する大久保利通<小人閑居日記 2016.2.25.>
福沢諭吉と西郷隆盛<小人閑居日記 2016.2.26.>
西南戦争への福沢の運動と、言論の自由<小人閑居日記 2016.2.27.>
『丁丑公論』と日本国民抵抗の精神<小人閑居日記 2016.2.28.>
福沢の西郷銅像建設趣意書<小人閑居日記 2016.2.29.>
『現代語訳 福澤諭吉 幕末・維新論集』<小人閑居日記 2016.3.1.>
『福澤諭吉事典』の『丁丑公論』<小人閑居日記 2016.3.2.>
佐藤賢一さんの『遺訓』は『新徴組』の続編<小人閑居日記 2018.1.12.>

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