慶應志木高校75年記念式典2024/03/14 07:10

 3月9日、慶應義塾志木高等学校75年記念式典が、志木の校内に75周年の記念事業で新設された多目的棟「光彩館」の多目的ホールで開かれ、参列してきた。 自由が丘から志木まで、東横線から副都心線経由、東上線直通、乗り換えなしの一本、50分で着くのは、隔世の感がある。 志木の駅も、改札を出ると駅ビルの店の中なので、戸惑ってしまう。 入口では、俳誌『夏潮』の仲間、母校で国語を教える前北馨さんや、大舘先生のご子息で志木会副会長の信さんがにこやかに迎えてくれる。 会場では、新聞部の先輩後輩、志木会の俳句の会「枇杷の会」や「志木歩こう会」で、お馴染みの面々と挨拶することができた。

 記念式典、髙橋美樹校長の式辞。 1948(昭和23)年、松永安左エ門さんに校地の寄付を受け慶應義塾農業高校として開校、1957(昭和32)年、大学へ一貫教育の現校名の普通高校に転換し(この年、私が入学)、75周年を迎えた。 新たな教育方針として、「多様な「交際」ですすめる「数理と独立」の教育」を掲げた。 多様な「交際」によって、シュンペーターのいわゆる「新結合(イノベーション)」がもたらされる。 福沢先生も、松永安左エ門さんも、そうした精神の体現者、イノベーター、先覚者であった。

 伊藤公平塾長祝辞。 開校75年11カ月になる、その前年、松永安左エ門さんが寄付してくれた土地は4万5千坪、慶應義塾は農学部設立を計画中だったが、近代農業を実学する定員100名の農業高校として発足、9年後一貫教育校となった。 武蔵野の自然が魅力、大学1年生だった1985(昭和60)年、体育会庭球部に属し、ダブルスのパートナーだった一年先輩が志木高出身で、志木のコートに来たが、部員や安達監督(?)のやる気と熱意に、感心した懐かしい青春のキャンパスだ。 やる気と熱意は、その後会った志木高出身者に共通する。

 坂上隆彦志木会会長祝辞。 ご出席の1期龍野、4期三浦先輩、牛舎のあった時代から、今のメンバーに至るまで75年、志木高の魅力は結束力だ。 全国の雑多な集団からピカピカの一年生が来て、それぞれの中学ではトップクラスだったのが、普通のメンバーだと覚る、その仲間意識が志木高の母校愛につながる。 75周年の記念事業の募金、2億9千万円の目標をほぼ達成する見込み、法人からでなく全て個人の寄付で、あと三週間だが、オーバーしてもキックバックはいらない。

 森岡崇主事の光彩館落成報告。 光彩館は、「多様な「交際」ですすめる「数理と独立」の教育」の手段としての建物だ。(光彩と交際がかかっていたわけだ) これからの教育活動で、それを実現できるかが課せられている。 その一つ、志木高では国際交流の機会が増えている。 松永安左エ門さんは茶人でもあったが、光彩館には茶室もあり、茶道を披露する準備もできていて、出会いの場として、多様な「交際」の理に適ったものになるであろう。 正面の壁画は、卒業生大山エンリコイサムさんの作品だが、外に飛び出しており、さまざまなオーダーを越えて、はみ出して行くことを、描いている。

 生徒会制作75年記念動画上映。 生徒会長、夏天碩君。 「学問をするには分限を知る事肝要なり。人の天然生れ附は、繋がれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、唯自由自在とのみ唱へて分限を知らざれば我儘放蕩に陥ること多し。即ち其分限とは、天の道理に基き人の情に従ひ、他人の妨を為さずして我一身の自由を達することなり。自由と我儘との界は、他人の妨を為すと為さゞるとの間にあり。」(『学問のすゝめ』) 志木高の精神(Spirit of Shiki)の一つは、1972~73(昭和47~8)年の志木高生の制服自由化運動に表れた。 卒業生で教師になっている者6名、その談話映像から。志木高生、「やるときはやる。やらないときはやらない。」(カラスの声が聞こえた)。野火止用水と雑木林は江戸期からのセット、校内に最大の欅など巨樹8本。 夏天碩君は、やなせたかし「アンパンマン」の 歌詞2番、「そうだ おそれないで みんなのために あいやゆうきだけがともだちだ」が好きだと話した。

 記念式典の後、光彩館前に、花桃(源平)の記念植樹があった。 多種多数の木がある校内に、花桃はなかったそうだ。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック