ポルトガルからオランダへ、さらにイギリスも2024/03/17 09:19

 大きな苦境の原因は、生糸だった。 絹織物が好まれ、着飾るようになったので、生糸の需要が高まり、最大の輸入品になって、貿易赤字となった。 生糸の輸出は、中国を拠点にしたポルトガルが握っていた。 家康は、慶長14(1609)年、オランダに有利な条件を与え、関税をかけず、平戸に商館を許して、ポルトガルの独占を抑えようとする。 競争が起これば生糸の価格を下げることが出来、日本は有利な立場に立てると考えたのだ。 ポルトガルの独占は解消した。 ヨーロッパ諸国の競争を巧みに利用した。  家康がつぎに目をつけたのは、イギリスだ。 イギリスにも破格の待遇を与え、加えて蝦夷の通行権を与えた。 イギリスは当時、未開拓の北西航路を探索中だったので、それを後押しした。

 さらに今回、家康の壮大な野望が明らかになった。 日本自らが世界の海に乗り出そうとするものだ。 スペインのインディアス総合古文書館で、家康と秀忠連名のスペイン副王宛書簡が発見された。 アントニオ=サンチェス・デ・モラ専門職員によると、ヌエバ・エスパーニャ(スペイン領。現在のメキシコ)のアカプルコと貿易船を毎年往来させ、日本船を送り込んで新たな貿易利益を得るとともに、現地に渡った日本人に先端の技術、銀を精錬する技術、巨大な船を作る技術、大海原を航海する技術などを学ばせようとするものだった。 その全てに家康は、興味を持っていた。 ヨーロッパ文明の持つ優れたものを、日本のために利用すること、それは一種の革命だった。 しかし、当時ヨーロッパの国々は自国の航路に他国が参入してくれば、武力を使って締め出していた。 そうした中で、家康は、スペインの航路に参入しようとしたわけだが、それはスペイン国王が断り続けた。                   (つづく)

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