スペイン航路に参入する、貿易立国の夢2024/03/18 07:10

 転機は、慶長14(1609)年、スペイン船が(千葉県)御宿で座礁したことで訪れる。 スペイン国王の重臣の一人、フィリピン臨時総督のロドリゴ・デ・ビベロが乗っていて、駿府城で交渉が始まる。 ビベロは厳しい条件を出す。 キリスト教の布教、オランダ人の追放、鉱山を発見したらその利益の3/4を贈与、全沿岸の測量、関東の港を与え救援体制を整備。 家康は、側近全員の反対を押し切って、オランダ人の追放と鉱山の利益だけを除き、この厳しい条件を飲んでもスペイン航路に参入しようと考え、スペイン王からの回答を待つ。

 スペイン南部セビリアのエスピリトゥ・サント女子修道院で、大発見があった。 「聖櫃(せいひつ)」が、調査の結果、日本製の螺鈿の豪華な漆器と判明した。 1610年頃の主力輸出品で、30個以上が残っている。 オビエド大学の川村やよい准教授(美術史)は、ヨーロッパの人のために作ったもので、形も模様も非常に派手な贅沢品、家康も西洋人の好みがわかっていたのだろう、と。 スペインからは、黄金に輝く世界最高水準の洋時計が届く、国王の家康への贈り物だった。

 フェリペ3世の回答、許可証が発せられた。 しかし、それが届くことなく、大坂の陣があり、家康が75歳で死ぬ。 世界を股に掛けた貿易、それは見果てぬ夢に終わった。 許可証は、アメリカ大陸のアカプルコで止まっていた。 キリスト教徒の増加を脅威に感じた家康が禁教令を出したという情報がスペインに届き、発送が差し止められていたのだ。 貿易と布教を別のものとした家康に対し、それを切り離せないスペインは禁教令に反発し、白紙に戻したのだ。

 二代秀忠は、父の対外政策を転換していく。 ウィリアム・アダムスは、全てのものが、余りにも大きく変わってしまった、と手紙に書いているという。 秀忠は貿易の制限令を出し、窓口は平戸と長崎だけになった。 寛永18(1641)年には、長崎の出島のオランダのみに限る鎖国体制へ移行、以来200年続くことになる。 家康が恐れなかったが、秀忠は出来なかった。

 《二十八都市萬国絵図屏風》には、太平洋の真ん中にも、ヨーロッパの港にも、日本の船が描かれていたが、それは家康の貿易立国の夢の跡だった。 貿易立国の道は、戦後の高度成長を支え、日本経済の原動力となっていく。 そして今もなお、島国日本が世界に生き抜くための「国のかたち」であり続けている。

 私は、学校を卒業して銀行に入った頃、高坂正堯さんの『海洋国家日本の構想』(1965・中央公論社)を読んだことを思い出した。 高坂正堯さん、最近再評価されているようだ。

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