三浦按針研究、中村喜一さんのサイト「按針亭」 ― 2024/03/22 07:00
15日に、NHKスペシャル『家康の世界地図~知られざるニッポン“開国”の夢』から、家康が海外に関心を持ったきっかけは、慶長5(1600)年イギリス人航海士ウィリアム・アダムス(後の三浦按針)が豊後国にオランダ船リーフデ号で漂着したことだった、と書いた。 ウィリアム・アダムス(三浦按針)については、大学時代のクラブ文化地理研究会の二年先輩の中村喜一さんが、その研究者で「按針亭」というホームページ(https://willadams.anjintei.jp/index.htm) に「三浦按針 ゆかり」を書いていらっしゃる。 中村喜一さんは、以前、「等々力短信」第1151号「ある同“窓”会の物語」(2022(令和4).1.25.)の、ドイツの詩人、ルートヴィヒ・ウーラントの「渡し場」の詩の探究から始まる同窓会メンバーのお一人だ。
「三浦按針 ゆかり」の、三浦按針プロフィールを読む。 三浦按針(ウイリアム・アダムス)Wiliam Adamsは、イギリスのジリンガム(メッドウェイ市)で1564年に生まれた海の男。 1600年4月、関ケ原合戦の半年前、帆船(リーフデ号)に乗って九州備後(現、大分県臼杵市佐志生(さしう)黒島沖)に来航。 日本に来た初めてのイギリス人。 リーフデ号で一緒に来航したヤン・ヨーステン(耶揚子)と共に大坂城で徳川家康の引見を受け、家康から重用されて、外交顧問となり、江戸(東京都中央区)に屋敷を与えられた。
1604年から1605年頃に家康の命により伊東(静岡県)の松川河口で日本初の洋式帆船(80トンと120トン)を建造したことにより、慶長10(1605)年に相州三浦郡逸見(現、神奈川県横須賀市)に知行地を与えられて、三浦按針と名乗った。(『徳川家康のスペイン外交』(新人物往来社)などの著書のある、鈴木かほる説では、洋式帆船建造は関ケ原合戦の直後。) 三浦按針は、「青い目のサムライ」といわれている。
三浦按針は、家康の亡き後は、幕府が外国からの侵略を防ぐため、キリスト教を本格的に禁じる政策に転じたことから不遇であったようで、故国イギリスに帰ること叶わず、1620年5月、平戸(長崎県)で病により56歳の生涯を閉じた。
三浦按針供養塔が、京浜急行按針塚駅(私は、こんな駅があるのも知らなかった)南方の塚山公園(横須賀市西逸見町)内の眺望の良い所にあるそうだ。 中村喜一さんに、「明治38年の按針塚発掘調査に関わる報告書を含む周辺史料群二つを発見して」や「按針塚発掘調査報告書を尋ねて」などの論文があるという。
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