千円で財閥気分、三井記念美術館 ― 2005/11/06 08:27
3日、文化の日だからというわけではないが、新しく出来た三井記念美術館 に行って来た。 日本橋の三井本館の7階、交詢社が建て替わるまで入ってい たので、ときどき行ったことのある階だ。 隣に竣工したばかりの高層ビル「日 本橋三井タワー」の1階からエレベーターで入るようになっている。 従来「三 井文庫」別館としてあった三井家のコレクシュン、国宝6点、重要文化財20 点、重要美術品44点を含む、茶道具、絵画、書蹟、能面、能装束、拓本、刀 剣、調度品など約3,700点と、切手約13万点を収蔵しているという。 11月 13日までが前期、11月17日から12月25日までが後期で、開館記念特別展I 「美の伝統 三井家伝世の名宝」の開催中だ。
10時からというから一番に入ったのに、展示室1の陶器の周りにはもうかな りの人がいた。 三井本館の建物自体が重要文化財で、重役食堂だったという ここの木壁部分は保存の対象になっていて、そのまま残して展示室にしたのだ そうだ。 日本で焼かれた茶碗で国宝に指定された茶碗はたった二つで、その 一つ「志野茶碗 銘卯花墻(うのはなかき)」(桃山時代)始め、「黒楽茶碗 銘俊 寛」(楽長次郎作)、「黒楽茶碗 銘雨雲」(本阿弥光悦作)、「銹絵染付笹図蓋物」 (尾形乾山作)等々、どこかで見たことのある名品が並ぶ。 絵画と書蹟の展示 室4では、円山応挙の国宝「雪松図屏風」、藤原定家筆の国宝「熊野御幸記」 が超目玉。 どれもこれも、こちらに目がないから、その価値がわからないの が、申し訳ないけれど、上等の場所で、名品を見て歩く気分はとてもよい。
私が気に入ったのは、展示室5の調度品の内、昭和8(1933)年「象彦」八代 西村彦兵衛作「『両替年代記』蒔絵冊子形硯箱」、分銅型の硯、そろばん型の銀 の水滴、銭を描いた金色の墨などから、千両箱形の桐の外箱まで、三井家の商 売を扱って、実に洒落ているものだった。 有名な三井高陽(たかはる)切手コ レクションの、ほんのさわりも、興味深いものだった。
父の命日と、秋色庵の「里のもち」 ― 2005/11/07 08:22
父が死んだのは、平成7(1995)年11月7日のことだったから、ちょうど十年 になる。 5日の午後、三田で福澤諭吉協会の読書会があったので、その前に 魚籃坂に近いお墓に寄った。 土曜日で父の母校である隣の御田小学校からは 子どもたちの賑やかな声が聞こえていた。 墓の上のハゼはまだあまり紅葉し ていなかったが(家の庭のハゼは紅葉の最終段階)、椎の実だろうか、黒っぽい 少し太めのどんぐりが沢山落ちていた。 お寺から幽霊坂を下りて、学校まで 歩いて行った。 上天気、少し汗ばむほどの距離だ。 途中のお寺が、ど派手 な霊園建築を建てていた。 ラーメン二郎には長い行列が出来ていた。
帰りがけ秋色庵大坂家で「里のもち」を求める。 包み紙に「玄米粉を利用 しまして、素朴な味を出し、その上を山帰来の葉で包んでみました」とある。 「山帰来」、どこかで聞いたことがある。 そうだ「おかふい」の「生薬屋やっ と聞き取るひゃんきらひ」ではないか。 こんなに早く、ひょんなところで山 帰来。 『広辞苑』をみる。 山帰来・山奇量、ユリ科の多年生蔓性低木。中 国・インドなどに自生。サルトリイバラに似るが、とげがない。葉は長楕円形、 三縦脈がある。根は生薬で土茯苓(どぶくりゅう)・山帰来といい梅毒の薬とす る、とある。 日葡辞書に「サンキライヲノム」とあるそうだ、日葡辞書は慶 長8(1603)年の刊行、その頃も梅毒があったことになる。
お菓子「里のもち」を包んだ塩漬けの葉は、柏の葉より厚めで、三縦脈が葉 の先端で一点にまとまるので、普通の木の葉の形の、外側両方にまた葉肉があ る楕円形になっている。 原材料として、新粉、小豆、玄米粉、砂糖、白玉粉 とあり、黒っぽい餅が餡をつつんである。 山帰来の葉で挟んだ形といい、味 といい、じつに素朴を絵に描いたようなお菓子だった。
三井家の謎 ― 2005/11/08 09:11
財閥についてよく知らないのも、『古事記』や神話に弱いのと同じ理由かもし れない。 三井家の初代は伊勢松坂在住の三井高利(たかとし1622-1694)、延 宝元(1673)年に江戸本町1丁目に呉服店を開業し、京都の室町通蛸薬師町に仕 入店を構えたのが、三井越後屋の創業という。 10年後の天和3(1863)年には 駿河町の南側、現在の三越本店の地に移り、両替店を併設した。 「現銀掛け 値無し」店先売り定価販売の新商法が、江戸市民のニーズに合い大発展、家産 を築いた。 高利と妻かねの間には、10男5女(ほかに男の庶子1人)があった。 高利の死後、遺産は分割せず共有相続とし、各人の持分(割、割歩といい、長男 を最大とする不均等配分)を決めておくという形をとり、これを基礎として合計 11軒の三井家が創出された。 その構成は、高利の実男子のうち6人を初代と する本家(ほんけ)、および長女の夫、五男の長女の婿養子、五男の跡目筋で長 男高平の婿に当たる異姓小野田家の3軒およびのちに加えた異姓の2軒(家原家 と長井家)を連家とするものである。 幕末期に小野田、家原、長井の3連家が 絶家となったが、明治25(1892)年同3家再興の名目で三井姓連家が創設され、 11家構成に復した。 家系としては長男家の優位性を保ちつつ、これら男系の 単独相続によって継承される複数家系全体の結合が三井家である。
江戸時代、伊勢商人である三井家は、「江戸店(だな)持ち京商人(あきんど)」 と呼ばれた典型的な豪商として京都に居住し、京文化の担い手となった。 そ れぞれの家は、居住地の京都や松坂の町名、あるいは家名、家相互の位置関係、 東京移住後の地名などから、惣領家は北家、九男家は南家、次男家が中立売家(の ち伊皿子家)、三男家が新町家、四男家が竹屋町家(のち室町家)などと呼ばれた。 三井記念美術館が所蔵する美術品は、11家のうち、北家、新町家、室町家の三 家から寄贈されたものだという。 野次馬は、ほかの八家もそれぞれに美術品 を所有していただろう、それはいつどうなったのか、と、つい余計なことを勘 繰ってしまうのだ。 こういうのを「下種の勘繰り」という。
福沢の「女性論」、女性の一身独立 ― 2005/11/09 07:46
「福澤諭吉の「女性論」「家族論」」をテーマとして、福澤諭吉協会の2005 年度読書会が10月29日と11月5日の二回、慶應義塾福澤研究センター助教 授の西澤直子さんを講師に、三田の研究室で開かれた。 西澤さんは、福沢の 女性論・家族論を、まず三つの時期に分け、福沢の著作以外の書簡や実際の活 動に、さらには読者の反響にも、留意しつつ検討を加えた。 三つの時期とは、 【1】西洋事情外編・中津留別之書から、明治10年頃まで:「一身の独立」、 【2】明治18,9年から20年代前半まで:「新しい「家」の確立=体系的女性論」、 【3】明治31年から亡くなるまで:「新女大学主義」。
【1】明治維新後の福沢の最大の関心は、「民」(新しい形の日本人)の創出で あった、と西澤さんはいう。 一身独立して一家独立、一家独立して一国独 立、天下独立という主張だ。 一身独立した「民」は、精神的に自立し、経 済的にも自立していなければならない。 「男も人なり女も人なり」(『学問 のすゝめ』第8編)、「民」には女性も含まれる。 一国を構成するのは独立 した男女でなければならない。 福沢にとって女性の地位を論じることは、 近代のあり方を論ずることであり、生涯の関心事となるのは当然だった。
「一身独立」のためには封建的な「家」の解体が重要な命題になる。 前 近代的な思惟体系を引きずる「家」では近代国家の支えとは成り得ない。 そ れでは近代国家としての日本の支えとなる新しい「家」はどのように形成され るのか。 明治3年に書かれた『中津留別之書』には、福沢が一生かかって考 えていたこと、その女性論・家族論の本質が凝縮されていると、西澤さんは指 摘する。 そこには「人倫の大本は夫婦なり」「夫婦別あり」「男といい女とい い、等しく天地間の一人にて軽重の別あるべき理なし」とある。 社会を構成 する核は一夫一婦である夫婦であり、女性も「一身独立」し、男性と対等な立 場で「一家独立」を確立すべき存在だというのだ。 そして男が持っている自 由や権利は、女性も持っている、とする。
そして福沢は、女性の地位を向上し「民」として成長させるための活動を行 う。 (1)著述活動…『学問のすゝめ』、『かたわ娘』、『明六雑誌』男女同数論な ど、(2)学校教育…女学所設立(明治6年10月11日付九鬼隆義宛書簡)、(3)経済 的自立の支援…授産所としての慶應義塾衣服仕立局設立(明治5年8月)、姉今 泉たうの産科開業の段取り。
新しい「家」の確立 ― 2005/11/10 08:12
【2】明治18,9年から20年代前半まで:「新しい「家」の確立=体系的女性 論」。 福沢が明治18年『日本婦人論』『日本婦人論後編』『品行論』、明治19 年『男女交際論』『男女交際余論』、明治21年『日本男子論』をあいついで書 いたのは、封建的な「家」の解体がなかなか進まないことに加え、「士族風」の 封建的な家族の制度や風俗が一般(平民)にも広がることへの懸念があった。 福沢が何かにつけかかわっている中津の士族社会は、本質的には変容せず、精 神的にも金銭的にも旧主君である奥平家への依存から脱することができず、旧 藩士たちは旧体制下の「家」への帰属意識から離れることができない姿を見せ ていた(明治16年士族互助機関「天保義社」をめぐる紛議、明治20年前後の 中津市学校再興問題)。
この時期の一連の著作で福沢が説いたのは、社会を構成する単位としての新 しい「家」の確立と、女性であっても社会的役割を果たすことだった。 新し い「家」は(1)一夫一婦によって構成される、(2)対等な男女が愛・敬(尊敬)・恕(お 互いに許しあう)によって結びつく、(3)夫婦間でも各々の「私有」財産を有し、 各「家」ごと独立した活計を営む、ものだった。 女性の社会的役割について は、「男女共有寄合の国」「日本国民惣体持の国」「国の本は家に在り」と書き、 女性にそうした力を備えさせるための学習・交際の場を与えることを考えて、 著述活動や教育活動を行った。 明治10年代中ごろまで、幼稚舎の前身であ る和田塾に女子がいた記録がある。 明治19年留学中の息子一太郎・捨次郎 宛の書簡で娘たちのために女子留学費用の調査を依頼しているし、女学校設立 の構想を持ち、慶應構内で「ミスシスバンホーレット」の塾が明治22,3年に開 かれていた。 女性に交際の場を提供する女性だけの立食パーティーや、落語・ 義太夫などの余興のある会、音楽会も、自宅で開催した。
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