その試合は現場で観た2006/03/21 07:05

 池井優さんの話が、自分史に重なるといったのは、幸運にも子供の頃、その 現場にいた試合がいくつかあったからだ。 父のやっていた工場が日大水泳部 のプール・合宿所に近かったので、古橋広之進、橋爪四郎ら“フジヤマのトビ ウオ”たちは身近な存在だった。 好記録を出しながら、日本がロンドン・オ リンピックに参加が許されなかった1948年8月、田畑水連会長がそれにぶつ けて日本水泳選手権大会を同時開催した。 記録上で彼我の優劣を競うと、 1500m自由形で古橋は金メダル、橋爪は銀メダル相当の記録を出し、圧勝した のであった。 敗戦から三年、それが日本国民にどれだけの勇気を与えたか。  翌1949年8月“フジヤマのトビウオ”たちは、南カリフォルニアの日系人団 体の支援を受け、全米水泳選手権大会に参加、その実力を世界に見せつけた。  その時、自宅を選手たちの宿舎に提供するなど親切に世話をしてくれたのが、 フレッド・和田という人物だと聞いていたが、その和田さんが後のオリンピッ クの東京への招致に特派大使として中南米諸国を回り票固めに活躍したという のは、今回初めて知った。

 同じ1949年10月、オドゥール監督率いるサンフランシスコ・シールズとの 「日米野球」の試合を観た。 一般には売られておらず、その時だけ後楽園球 場で販売されたコカ・コーラを初めて飲んだ。

 独立から1か月にも満たない1952年5月19日(サンフランシスコ講和条約 の調印は1951年9月8日、発効が1952年4月28日)、ボクシングの世界フラ イ級タイトルマッチで、白井義男がダド・マリノを破って、世界チャンピオン になった試合も、後楽園球場で観た。 池井優さんは、カーン博士が白井義男 に「日本人みんなが応援しているんだ、日本人のために戦え」と言い、一瞬脳 震盪を起こした白井に“Wake up Yoshio!”と声をかけた、と語った。  (このへんの自慢話は『五の日の手紙4』146頁「等々力短信」第752号「槍 の笹崎」でもしている)