誓願寺長屋の場所その他2007/07/25 07:49

 二つになった唐茄子をかついで、徳は誓願寺長屋に入る。 四文しかお鳥目 がないという赤子を背負ったおかみさんに、おまけして売り、弁当を使わせて もらう。 五つか六つの男の子が、弁当を欲しがる。 事情を聞けば、元侍の 旦那が小間物の行商に出ているが、送金が止まっている、自分も風邪をひいて、 もう三日も食べさせていないという。 ひもじさの記憶が新鮮な徳は、売り溜 めをみんな押し付けるように与えて帰る。 叔父さんが徳を連れて、誓願寺長 屋に戻ると、おかみさんが首を吊った騒ぎの最中だった。 因業の国から因業 を広めに来たような大家が、あの売り溜めを取り上げたからだという。 徳と 叔父さんは大家のところに乗り込み、やかん頭をやかんでぽかり、十六かん。  奉行所におおそれながらと、大家を訴え出ることになる。

 佐藤光房さんの『続東京落語地図』(朝日新聞社)によると、誓願寺長屋は今 の台東区西浅草二丁目、明治2年から昭和40年までは「田島町」といい、田 島山誓願寺という大きな寺があった、その門前町にあった貧乏長屋だ。 誓願 寺の場所を志ん生は「門跡様(東本願寺)の裏っ側」と説明していたという。  ついでに佐藤光房さんの薀蓄では、昨日のガチャガチャ男が四十八切れ食っ た唐茄子の安倍川だが、先代金馬と円生は三十八切れ、志ん生は三十五切れだ ったようだ。 志ん朝が四十八切れにしたのかもしれない。 さらに佐藤さん は、吉原田んぼの回想シーンの寄せ鍋を、志ん生が「去年のいまごろ、暑い盛 り」としていたのを、真夏に寄せ鍋は解せないとして、円生は「お楽しみなべ」 を「忘れもしない正月の、ちょうど五日」にしていた、先代金馬も正月だった、 と書いている。 雪の吉原にした志ん輔は、その点を考慮していたことになる。  これも志ん朝は、どうだったのだろうか。

「道楽と職業」<等々力短信 第977号 2007.7.25.>2007/07/25 07:51

 夏目漱石に「道楽と職業」という講演があることを、14日、福澤研究センタ ーのセミナー、ホーチミン市外国語情報科学大学のグエン・ティ・ハイン・ト ウックさんの「福沢と漱石の個人観―「独立」の視座」で知った。 漱石は、 職業というものは、人の為にする結果が己れの為になるのだから、元はどうし ても他人本位で、取捨興廃の権威が自分の手中にはないとし、職業を、道楽と 対比する。 芸術家、科学者、哲学者の立場から、人が単に職業的に活動する より、道楽の精神で「己」本位にしなければ作物が物にならないといい、社会 と関わる仕方として、そうした精神態度を勧めた。

 その話を聴きながら、私が思い出したのは、父のガラス工場で働き始めた若 い頃に読んだ、小林茂さんの『ソニーは人を生かす』『創造的経営―その実践的 探究』という本のことだった。 ソニー厚木工場での実験を通じて、labor(与 えられてする苦しい(奴隷的)労働)とwork(自発的労働)を分け、仕事は workでなければならない、社員が楽しく喜びをもって働くのでなければ、成 果も上がらないことが説いてあった。 わが社はもともと家族的雰囲気で、美 しいものを作り出すという生産の喜びもあったのだが、そうした考え方を、工 場の経営に生かすように努めたものだった。

 道楽(趣味)が職業(仕事)になれば、こんなに幸せなことはない。 でも、 それでお金をもらうことになれば、また別の苦しみが出るだろうことは、容易 に想像できる。 「等々力短信」を始めて32年、趣味の範疇で続けていたも のが、会社を畳んでからは生活の中心となった。 今では毎日ブログ「轟亭の 小人閑居日記」を書いている。 これが与えられた仕事であったなら、ここま では続けられなかったろう。 自発的であったからこそ、何の苦もなく日々更 新し、それが生き甲斐ともなっているのだ。

 先日、中学時代のK先生から嬉しいお手紙をいただいた。 私の作文にある 一種のユーモアを褒め、学校の文集に載せたりして下さったことが、後の「等々 力短信」につながった恩師である。 先生は、ずっと毎号保存し、時に思い出 しては読み返していらっしゃるという。 特に残っている二、三として「福沢 諭吉」と「須賀敦子」を挙げ、福沢については『福沢諭吉選集』を求め、須賀 については「短信」の開いた道を辿って、今では出版されているほとんどを読 み、改めて彼女の心情と知識を感じておられる、という。 反響の少ない中、 読者総代とも言えるお手紙であった。