梅処尼は「井上や伊藤のしわざ」2009/11/24 07:17

 下関や萩を歩いてきて、日記に書いた後で、何気なく本棚を見た。 昔、読 んだのか、読まなかったのか、吉田松陰や高杉晋作に関する新書や文庫本があ った。 その一冊に、福田善之さんの『歴史講談 高杉晋作 あばれ奇兵隊』(角 川文庫・昭和51(1976)年)があった。 福田善之さんは劇作家・俳優・演 出家だが、文庫本の解説に田中彰さん(その著書『岩倉使節団』を読んだこと があった)が「研究書や史料を引用し」「劇作家の想像力と幕末の志士を演ずる 俳優としての氏の実感からの鋭い解釈」「歴史家の研究心に刺激を与えるに十分 な指摘」を含む叙述、と書いている作品なのである。

16日の日記に「おうのが晋作の愛人だったおうのという女性が、再び三味線 を弾く巷に戻っていたのを、山縣有朋らが頭を丸めさせて梅処(ばいしょ)尼 としこの地の東行庵で菩提を弔わせることにしたという。 本心はどうだった のか」と書いた。 その場面は、福田善之さんの講談だと、以下のようになる。  「晋作の死後、おうのは尼になりましたが、かりにも高杉晋作の思いものが、 ふわふわ浮気してどこぞの馬の骨やら牛の骨やらと関係するようでは困る、頭 を丸めさせて墓を守らせよう、という井上や伊藤のしわざ。おうのをだまして 呼びよせて、あらかじめ隣りの部屋に坊主と床屋を用意しておき、「おうの、尼 になれ」「いやだあ」「いやでもなれ、それッ」と力づくで抑えつけ、あっとい う間に得度式。おうの泣く泣くくりくり坊主。ひどい話で。晋作の心からは遠 いことだったにちがいございません。梅処尼となったおうのは明治四十二年、 六十七歳でこの世を去りました。」

 15年後、福沢に大きな影響を与えた明治14年の政変も「井上や伊藤のしわ ざ」であった。