モラヴィアの『軽蔑』発端2009/11/10 07:20

 『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集』で『マイトレイ』の第二集第三巻には、 イタリアの作家アルベルト・モラヴィアの『軽蔑』(大久保昭男訳)も入ってい る。 『マイトレイ』に魅了された勢いで、これも読み始めたら、ずんずん引 き込まれてしまった。

 まだ30歳にならないリッカルド・モルテーニは演劇界で将来を嘱望された 劇作家、美人タイピストのエミーリアと結婚し、一間きりの家具つきの部屋に 住んでいた。 貧しかったが、エミーリアは整頓好きで、清潔でこざっぱりし た空気をこの生活にもたらし、妻が夫に示すことのできる最良の愛情のしるし を与えてくれていた。 二年が経って、リッカルドはエミーリアのために、高 額なアパートを分割払いで買う。 初めてアパートを見に行った日、ふたりの 愛の交渉のなかで、いつも控え目で、ほとんど臆病なくらいの妻が、リッカル ドに体を押しつけると低い声で接吻を求めてきた。 むきだしで、物音がよく 響き、まだ塗ったばかりのニスや漆喰の匂いのする部屋の、冷たい薄暗がりの 中の、埃っぽい床の上で、ふたりは異常で激烈な抱擁を交わす。

 入居まで二か月があり、リッカルドはアパートの金を稼ぐために、心ならず も映画のシナリオを書くことにする。 新居に移った翌日、リッカルドとエミ ーリアは、映画プロデューサーのバッティスタとレストランで夕食を共にし、 宵の残りを彼の家で過すことになる。 バッティスタの赤い細長い高級車は、 二人乗りだった。 バッティスタはエミーリアに乗るように勧め、リッカルド もそうするように言い、タクシーで後を追うことにする。 袖なしで、襟元が 大きく開いた黒絹の、彼女のもっているたった一着の夜会服姿のエミーリアの、 静かで落ち着いた美しい顔に、何かの不安と一種の当惑が滲んでいるのを、リ ッカルドは見た。 それが、二人の躓きの始まりだった。