福沢書簡に登場する渋沢栄一 ― 2012/06/17 01:24
ほかの人宛福沢書簡に「渋沢栄一」が登場するのは、つぎの3通である。
福沢書簡1630 中上川彦次郎宛 明治24(1891)年6月24日付
相談に答え、三井改革のため入社を強く勧める手紙だ。 「高橋(義雄)何 の役に立つべきや、小泉(信吉)如来様にても間合不申、差詰め足下にこそ可 有之」「唯一つの気遣は渋沢益田の輩がいやに思ひはせぬかと少々関心なれども、 是れは井上(馨)の方寸を以て如何様にも取扱出来可申」とある。 中上川彦 次郎は山陽鉄道会社の社長だったが、この年、井上馨の依頼により三井銀行の 経営悪化を立て直すため理事に就任、経営を担った。 福沢の高橋義雄や小泉 信吉、井上馨に対する評価がストレートに出ていて、興味深い。 14日に見た 『福澤諭吉事典』では、後に最高顧問井上馨も中上川改革に批判的になってい ったようだ。
福沢書簡1854 華族・富豪家・有力者 宛 明治27(1894)年7月30日付
日清戦争開戦に際して軍資醵集の相談会への出席を要請する手紙で、差出人 に渋沢栄一とともに名を連ねている。 ほかの差出人は、三井八郎右衛門、岩 崎久弥、東久世通禧。 この相談会は8月1日、銀行集会所に財界有志らが集 まって開かれ「報国会」と命名された。 会の「趣意書」は校正段階にあった が、政府が軍事公債を発行することを検討しはじめると、足並が乱れ、福沢は 独自に『時事新報』で醵金を呼びかけることになる。
福沢書簡1888 中上川彦次郎宛 明治27(1894)年11月15日付
北里柴三郎が計画していた「人足病院」の資金寄付と、その斡旋を依頼する 手紙。 「中上川君之御周旋ニテ、渋沢、岩崎其外之連中へも御話を願ひ度」 とある。 日清戦争で、傷病兵の救護・治療は赤十字社があたったが、軍夫は 対象外だった。 それで北里柴三郎は、広島に「人足病院」クーリー・ホシピ タル(軍夫救護院)を計画した。
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