坂上弘さんの講演「水上瀧太郎―人と文学」 ― 2012/12/26 06:37
21日、三田キャンパスの北館ホールに平成24年度小泉信三記念講座、坂上 弘さんの「水上瀧太郎『銀座復興』をめぐって―震災と文学」を聴きに行った。 坂上弘さんは、作家で、慶應義塾大学出版会会長、三田文学会理事長。 暮の せいか、聴衆がごく少なく、坂上さんは冒頭「沢山の方といいたいところだが、 厳選された方に」と言った。 家内を連れて行ったので、ひとり数を稼いだ。 たびたび言うが、三田演説会など「参加自由・事前予約不要」木戸無料のこう した慶應義塾の講演会に、塾生はもちろん、塾員、一般の方の参加が少ないの は、まことに残念で、もったいないことだと思う。 平成24年度小泉信三記 念講座、新年1月9日(水)には同じ北館ホールで16時30分から、江藤省三 体育会野球部監督の「プロ野球と学生野球」がある。
坂上弘さんは、演題を急遽「水上瀧太郎―人と文学」に変えた。 大ファン として、水上瀧太郎の姿を伝えたいと言う。 解説を書いた岩波文庫3月刊の 『銀座復興』が書評もいくつか出て評判で、同文庫の『貝殻追放 抄』も復刊さ れた。
実は2009年12月14日の第689回三田演説会で、坂上弘さんの「荷風・瀧 太郎の「三田文学」―明年「三田文学」創刊百年を迎えるにあたって―」を聴 き、21日から25日のこの日記に5回にわたって書いていた。 「三田文学」 の「伝統」<2009. 12.21.>、永井荷風を招いて文科刷新<12.22.>、荷風「三 田文学」の五年間<12.23.>、作家・水上瀧太郎の誕生<12.24.>、水上瀧太 郎と「三田文学」<12.25.>である。 読み直すと、けっこう丁寧に書いてい たので、今回の講演からは、ダブらなかった部分を書いておきたい。
父、阿部泰蔵は20歳で慶應義塾に入り、例の彰義隊の上野戦争の日に、福 沢のウェーランド経済書の講義を聴いていて、「雨天なり」と日記に書いている。 福沢門下の高弟、交詢社創立の中枢で、あの交詢社私擬憲法の起草者の一人で もあり、明治生命を創設した実業家だった(等々力短信 第1023号2011(平 成23)年5月25日「熱海の雪崩」参照)。 水上瀧太郎、本名阿部章蔵は、そ の四男、鶴岡出身の母が嗜んでいた短歌を詠んで、与謝野鉄幹・晶子の門に出 入りし、早くから泉鏡花に傾倒していた。 大学部理財科卒業の前年の1911 (明治44)年、阿部肖三の名で『三田文学』に小説「山の手の子」を発表、注 目を浴びた。 のびのびとして、近代的な私(わたくし、まだ自我と言わなか った)に目覚めた世代だが、父との対立はなかった。 父親からは、新聞記者 と小説家だけにはなるな、と言われており、対立を意識的に回避し、いかに父 母に迷惑をかけずに物を書くか、大変な決意を持って作家になろうとしていた。 卒業後、父のすすめでハーバード大学に留学、ロンドン、パリに遊学し、1916 (大正5)年10月、足掛け5年の外遊から神戸の港に帰朝したところで、問題 が発生する。
コメント
_ 濱田洪一 ― 2012/12/26 13:02
_ 轟亭 ― 2012/12/26 20:13
たびたびコメントを有難うございます。 小泉妙さんの前の列、
感想を述べた東大出版会の人の後ろに座っていました。 今度、
この種の会で、頭の光っているのを探してください。
母方のお祖父様田宮猛雄さんが、信時潔の同級生だったり、
比企能樹さんの父上比企能達さんの前、初代国立がんセンター
の総長だったりと、私のブログとの不思議なご縁でしたね。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。
前から5列目ぐらい、中央に坐っててらっしゃったのが馬場さんご夫妻でしょうか。講演終了後、演者の坂上さんが、小泉妙さんやそのご夫妻にごあいさつされているのを見て、塾の長老の方かと思いました。
私も、「参加自由・事前申し込み不要」、の講座良く行きます。12月18日、理工学部人間教育講座は、日吉で「東日本大震災の遺児達と出会って」長沼孝義氏でした。東日本大震災で親を亡くした子供達に高校卒業後の進学を支援するみちのく未来基金の理事で、カルビー株の副社長です。
坂上さんの講演では、瀧太郎作品の朗読と、「銀座復興」の舞台写真が印象的でした。