B・H・チェンバレンの福沢諭吉略伝(下)2013/02/07 06:34

 「日本に講演や演説の習慣を持込んだのは彼である……英語の専門用語に相 当する新語を造り、時代の責に耐えるよう日本語をあわせていったのも彼が先 鞭をつけたことである。彼はおびただしい数の文章を書き、編纂し、翻訳し、 解説し、要約しただけでなく、大衆的新聞をも編集した。そればかりか慶應義 塾の名で全国的に有名となった学校を創設しその管理に当った。それは学校(ス クール)という語がもつ二つの意味において学校であった。すなわち一つは教 育機関として、一つは知的・社会的影響力の中心という(学派の)意味におい てである。三十余年にわたる間に福沢がこの学校を通して及ぼした感化はまこ とに強大なものであった。彼の革命的なまでに新しい見方や方法は、一切の過 去を断絶した新世代の青年たちの必要にぴったり適合したのである。したがっ て福沢のもとに集まってきた人の数は非常に多く、しかも容易に陶冶されたか ら、現在日本において国事を動かしている人々の半数以上の人にとって、福沢 こそが知的な面での父であると呼んでも過言ではない。彼の生涯をかけた事業 の重要性はその点に存するのである。日本では福沢は思想家としてもてはやさ れているけれども、福沢はそれ以上の一大活動家であった。フランスの百科全 書家たちと同じように、彼は国民全般の啓蒙と社会改革のために働いた。彼の 「哲学」なるものは独創的なものではなく、よく見積っても、功利主義的な傾 向をもつ穏健な楽観主義にすぎない。しかしそのようなものにすぎなかったに せよ、日本の指導的な立場にある人々はその福沢の哲学を自分のものとして採 り入れたのである。

著作家としての福沢の成功は真に驚くべきものであった。彼の単行本は、普 通の数え方によれば、五十点で、巻数は百五巻にのぼる。1860年(万延元年) から1893年(明治26年)までの間にすくなくとも三百五十万部(いいかえる と七百四十九万冊)が印刷された。しかし彼のもっとも有名な著作のいくつか は、1893年以降に書かれた関係で、右の計算には含まれていない。その一つは 先に言及した『福翁自伝』であって、すでに十七版を重ねている。『福翁百話』 はすくなくとも三十四版が出ている。そのほかにもまだ三、四の著作がある。 実際、福沢の著作は厖大な量にのぼるので、福沢は自分自身のための印刷所を 設けた方が得になると早くから判断したほどであった。こうした結果が生じた のは二つの原因が重なったからである。一つは福沢が扱った主題がみな(日本 の読者層にとって)新しく興味を惹いたからである。もう一つは例外的に明晰 な文体で書かれていたからである。福沢自身『福沢全集緒言』の中で明快に書 こうと絶えず努力した旨を述べ「是等の書は教育なき百姓町人輩に分るのみな らず、山出(やまだし)下女をして障子越に聞かしむるも、其何の書たるを知 る位にあらざれば、余が本意に非ず」と言った。福沢は更に「殊更らに文字に 乏しき家の婦人子供等へ命じて、必ず一度は草稿を読ませ、其分らぬと訴る処 に、必ず漢語の六(難)かしきものあるを発見して、之を改めたること多し」。 これほど真に民主的な著述家が比類なき名声を博したのは、少しも不思議では ない。」(略伝、終)

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