岸田劉生、日記や麗子の本2013/06/21 06:40

 酒井忠康さんの<美術史は人間のかかわり>、二人目は岸田劉生(1891(明 治24)年~1929(昭和4)年)だ。 土方定一は1941(昭和16)年(酒井さ んと、私の生れた年だ)に、岸田劉生の最初の評伝をアトリエ社から出した(戦 後、復刻)。 劉生日記を借りようと、奥さんの蓁(しげる)さんを訪ねると、 劉生の伝記は武者小路実篤のような人が書くべきで、あなたのような若造には 貸せないと、断られた。 それで日記なしに、評伝を書いてみようと決心した。  この評伝がいい。 その後、これを越えるものは一つもない。 いろいろな資 料が利用可能になったが、細かく調べればいい仕事ができるものでもないこと が、これでわかる。

 土方定一は晩年、『岸田劉生全集』全10巻(岩波書店・1979-80年)編集の 要にいた。 その後『劉生日記』全5巻(岩波書店・1984年)も出た。 酒井 さんは、岩波文庫で『岸田劉生随筆集』(1996年)、『摘録 劉生日記』(1998年) を編集した。 この『摘録 劉生日記』を、坪内祐三が『文藝春秋』で取り上げ てくれ、永井荷風の『断腸亭日乗』を第一として、五本の指に入る日記だとい った。 ただ相撲好きの坪内は、劉生が相撲好きで、鵠沼の家に土俵をつくり、 和辻哲郎や木村荘八などの友人が来ると、相撲をとった話を、編集が外したの は残念だとした。

 『摘録 劉生日記』を、いつも自分の事を心配してくれていた音楽評論家の吉 田秀和さんに贈ると、すぐボールペンでお礼の葉書が来た。 相撲の話で、大 錦、福柳が出て来る。 福柳に「ふくりゅう」とルビをふっていたら、「ふくや なぎ」で、「大正の音感だ」だと、さすが吉田さんらしい指摘、第二刷で訂正し た。 福柳は、関脇までいったが河豚を食って死んだ、と詳しい。 お父さん が伊勢ヶ浜部屋の後援会長だったというのだから、相撲の知識が半端じゃない。  ご自身も、北の湖が負けると機嫌が悪かったそうだ。

 麗子像の岸田麗子著『父 岸田劉生』は、いい本だ。 雪華社から出たが、ゲ ラの段階で麗子がくも膜下出血で亡くなり、残念ながら完成本を見ていない (1987年、中公文庫に入った)。 5歳から16歳まで100点近くの麗子像を描 いた、暴君みたいな人だった父を、娘がどう見ていたか。 あるスタンスがあ って、べたべたせず、一種の優しさもある。 絵画の後の、成長を語っている。  酒井さんは、女の子が生れた友人に、この本を十冊ほど贈ったそうだ。 『鞄 に入れた本の話』では、しょっぱなで麗子の『父 岸田劉生』を取り上げた。  谷川徹三は、「この本を読まずに岸田劉生を語る人は、麗子像を抜きにして劉生 の画業を論ずるのと同じ」と、書いた。

 母が、娘の時に四国遍路をして聞いた話に、「四国遍路を逆に回ると、会いた い人に必ず会えるよ」というのがあった。 これは、美術史の話にも、通じる。

 <触覚>の話は、略す。 関心のある方は、酒井忠康さんの『彫刻家への手 紙』『彫刻家との対話』(未知谷)を、お読み下さい。