「三田」土地購入と福沢2013/06/02 07:03

 岩谷十郎さんの講演、もう一つの柱は、実践的な交渉姿勢と法に対する考え 方の問題である。 福沢は「長沼事件」に支援者として関わっていた頃、自ら 別の土地問題や訴訟にも関係していた。 一つは「三田」購入、もう一つは版 権・著作権の確立運動である。 福沢は「利を争うは理を争うことなり」とい う「権利」のしたたかな主張者だった。

 (事実関係を『慶應義塾史事典』で見ておく。 慶應義塾の三田移転は明治 4(1871)年3月。 その前年、福沢が湿地の芝新銭座で発疹チフスにかかり、 どこか良い土地をと探し、島原藩の中屋敷を選んだ。 ちょうど各大名の上、 中、下各屋敷のうち一つを残して、あとは上地(あげち)させる旨の取り決め がなされたばかりだった。 折も折、東京府から福沢に西洋風のポリスの組織 について、諸外国の制度調査の依頼があったので、一種の暗黙の交換条件のよ うな形で土地の件を依頼するなど、あらゆる手段を尽してその実現を図った。  明治3年11月、東京府から島原藩邸11,856坪の借用許可の令書が正式におり た。 その後も運動し、藩邸の建物、5年5月には土地の、払下げ手続きを終 えた。)

 岩谷さんは、「上地令」下の東京府において、「所有権」を獲得する方法とし て、福沢が明治5年正月の「東京府下地券発行地租収納規則」の前に、東京府 に土地を召し上げさせ、それを借用し、私有したくなると、かなり強引な仕方 で官を動かし、払下げをさせ、近代的な「地券」を得たという。 「市街地券」 の交付、取得日は明治5年5月か明治6年か、はっきりしない。 島原藩から 苦情が来たが、文句は東京府へ行けと、直接の交渉は閉ざした。 お上、東京 府に従ったまでと、前近代的な処理を見せた。 岩谷さんは明治になって、旧 領主層が、領地や家禄について、なぜ抵抗しなかったのか、疑問だという。 も っぱら、政治権力の廃止と捉えられたのか、と。 ヨーロッパでは、領主層の 自然法による主張があった。 福沢は、近代的な所有権の問題と、捉えなおす ことができた。

 「長沼事件」でも、明治9年7月の沼地貸下許可の指令が出る前、2月相談 に来た村民に、福沢は官を訴える訴訟をも辞さない「払下げ」案と、牛場卓蔵 の「拝借」案を示して、どちらを選ぶかを村民に任せた。 福沢案は、沼が村 の私有地であることを強調し、近代的所有権の名義人としての強さを念頭に書 かれていて、行政訴訟に進むことも辞さないものだ。 結局、村民は「拝借」 路線を選ぶ。 当時、福沢は版権訴訟を抱えていた。 福沢を原告、行政(大 阪・京都・東京)を被告として、版権(著作権)を争点に、官(政府)へ法の 遵守を求め、版権という新しい利益を主張した。 官が版権(=私有)の法理 がわからない結果となった。