「同志社大学設立の旨意」2013/12/16 06:55

 「同志社大学設立の旨意」は、新島襄が原稿を書き、徳富蘇峰がきれいに作 り上げたものだそうだ。 伊藤彌彦教授は、岩波文庫の同志社編『新島襄 教育 宗教論集』(2010年)から引用したもので説明してくれた。

 「吾人は教育の事業を挙げて、悉く皆政府の手に一任するの甚だ得策なるを 信ぜず。苟くも国民たる者が、自家の子弟を教育するは、これ国民の義務にし て、決して避くべき者にあらざるを信ず。而して国民が自ら手を教育の事に下 して、これを為す時においては、独りその国民たるの義務を達するのみならず、 その仕事は懇切に、廉価に、活発に、周到に行き届くは、我自ら我が事を為す の原則において決して疑うべきことにあらず。」(27頁) 教育権は親にあり、 金はなくとも、丁寧に育てる必要がある。

 「教育とは人の能力を発達せしむるのみに止まらず、総ての能力を円満に発 達せしむることを期せざるべからず。いかに学術技芸に長じたりとも、その人 物にして、薄志弱行の人たらば、決して一国の命運を負担すべき人物と云うべ からず。もし教育の主義にしてその正鵠を誤り、一国の青年を導いて、偏僻の 模型中に入れ、偏僻の人物を養成するがごとき事あらば、これ実に教育は一国 を禍いする者と謂わざるべからず。」(29頁) 森有礼文相の軍隊式の師範学校 教育を意識して、オールラウンド・プレーヤーを育てようとする。

 「(知育偏重の)(明治政府の徳育は)ただ国民文弱の気風を矯むるに汲々と し、所謂角を矯めて牛を殺し、枝を析(さ)いて幹を枯らすがごとく、文明の 弊風を矯めんと欲して、却って教育の目的は、人為脅迫的に陥り、天真爛漫と して、自由の内自ら秩序を得、不羈の内自ら裁制あり、即ち一己の見識を備え、 仰いで天に愧じず、俯して地に愧じず、自ら自個の手腕を労して、自個の運命 を作為するがごとき人物を教養するに至っては、聊か欠くる所の者なきにあら ず。」

 「勿論この大学よりしては、或は政党に加入する者もあらん。或は農工商の 業に従事する者もあらん。或は宗教の為に働く者もあらん。或は学者となる者 もあらん。官吏となる者もあらん。その成就する所の者は、千差万別にして、 敢えて予め定むべからずと雖も、これらの人々は皆、一国の精神となり、元気 となり、柱石となる所の人々にして、即ちこれらの人々を養成するは、実に同 志社大学を設立する所以の目的なりとす。」

 「一国を維持するは、決して二、三、英雄の力にあらず。実に一国を組織す る教育あり、智識あり、品行ある人民の力に拠らざるべからず。これらの人民 は一国の良心とも謂うべき人々なり。」 新島襄は同志社大学で、自由教育によ り、中流国民の造出を目指した。 無名ではあるがという平民主義。