花緑の「猫久」本篇 ― 2014/08/01 06:06
久六という猫みたいにおとなしい男、猫久とか、ニャゴさんと呼ばれている。 それが、真っ青な顔をして、家に飛んで帰った。 今日という今日は勘弁なら ねえ、殺してやる、おっかあ脇差を出せ。 かみさんは、押入れから刀を出し て、神棚に何か言うと、三べん頂いて、猫久に渡した。 長屋のちょうど真向 いで見ていた熊公、おかみさん、殺気立ってんだから、止めるがいいじゃない か、と女房に言う。 あの女、ずっと以前から変っている、朝は亭主より先に 起きるんだよ、女の恥、生意気だ、井戸端で朝会うと、お早うございます、な んて言うんだよ、いやになっちゃう。
床屋へ行くよ。 お昼のおかずは、鰯のぬただよ、味噌はあたしがやるから、 鰯をこしらえておくれよ、南風(みなみ)が吹いてるんだ、鰯腐っちゃうよ。 大きな声で、鰯、鰯って言うな、昼のおかずが鰯だってことが、長屋中にわか っちゃうじゃねえか。 世間でこの長屋のことを何て呼んでるか知ってるかい、 鰯長屋ってんだよ。 生意気なこと言うな、カカアの悪いのをもらうと一生の 不作というが、四週間毎に取り替えるとかないのかね。
真向えの猫が暴れ出した、猫は魔物っていうが、猫久はそっちだったんだ。 外へ出たら、火焔を吹いていた。 床屋の控えの間で、髪の出来上ったお侍が、 銀煙管でプカプカやりながら、聞いていた。 おい町人、こっちへ来てもらい たい。 もそっと、これへ、猫又の変化が現れたとか、拙者年は取ったが、腕 に年は取らせん、退治をしてくれん。 猫といっても、猫じゃないんで。 豚 か? かみさんもいる。 寄席に出て、ウグイスを鳴いたり、家族でやるんで もない。 猫の久六という男です。 かみさんが、刀を袖へあてて、神棚で迷 いごとを言うと、三べん頂いて渡した。 さようであるか、それは身共とした ことが粗忽千万であった。
久六は、その方の朋友であるか。 あいつのウチはキッコーマン、ウチはヤ マサで。 朋友かと、聞いておる。 あいつは八百屋で、あっしは大工。 わ からん奴だ、久六はその方の友達であるか。 友達であるか、ですか。 その 久六の妻なる者が、神前に三べんいただいた剣(つるぎ)をつかわしたのを見 て、おかしいと申して笑ったのか。 笑う貴様が、さにあらずだ。 ご存じな くば、聞かせてとらす。 汝人間の性(しょう)あらば魂を臍下(さいか)に 落ち着けて、よっく承れ。 日頃、猫とあだ名されるほど人のよい男が、血相 を変えてわが家に立ち帰り、剣を出せとは男子の本分よくよく逃れざる場合だ。 その妻が、夫の心中をよくはかり、神前に三べん頂いてつかわしたのは、先方 に怪我のあらざるよう、夫に怪我のなきよう、神に祈ったその心底、アッパレ な賢夫人である。 身共にも25になる倅があるが、ゆくゆくはさような女を めとらせたい、アッパレ、アッパレ、実に感服つかまつった。 よくわかりま せんが、いただくカカアがホンマ物っていうことで。 親方、今日は帰えるよ、 聞いてみなきゃあわからねえなあ、笑う貴様がカニサラダだぜ。
何してんだよ、この人は、どうするつもりだい、お昼のおかずの鰯。 座っ たね、正座したの初めて見た。 もそっと、これへ。 よそってくれって、お まんまかい。 魂はサイカチの木にぶら下がり、日ごろ猫久なるもの、男子で あってみればよくよく、逃れザル屋と喧嘩をすればだ、夫はラッキョウ食って わが家に立ち帰り…、日ごろ妻なる者は、夫の身長を計りよ、遠方に怪我のあ らざらざらのジャラジャラよ、身共にも25になる倅があるが…。 何言って んだい、お前さん27だよ。 この女こそ、カニサラダ、満腹つかみ取りだ。 お前も、猫のかみさんみたいに、いただけよ。 何だと思えば、いただくのか い、私だっていただけるよ。 ありゃア、猫が鰯くわえてるぞ、こん畜生……、 おっかあ、なんか持って来い、すりこ木でいいから。 待っといでよ、今、い ただいてるよ。
最近のコメント