孫三郎の民芸運動支援2016/04/05 06:27

 兼田麗子さんの本から、大原孫三郎の日本民藝館―柳宗悦たちへの支援にも、 触れておく。 孫三郎は「文化というものは中央に集まるのはよくない。地方 にあるからこそよいのだ」という考えを持っていた。 倉敷や岡山の経済、生 活、知識、文化レベルを向上させることを第一の使命ととらえていたためだ。  倉敷では大正10(1921)年に倉敷文化協会が設立され、美術品展覧会と文化 講演会が催されるようになった。 孫三郎は常々、倉敷にはこれといった土産 物がないので、地域に根づいた文化的産物が必要だと考えていた。 特産物の 候補として、木工品、酒津(さかづ)陶器、藺草製円座などに着目し、製作活 動を支援するようになった。 この倉敷の民芸運動とでもいうような活動は、 児島虎次郎を中心に、その死後は孫三郎の主治医・三橋玉見、大原美術館初代 館長・武内潔真などがリードした。

 三橋も武内も元大原奨学生で、三橋が孫三郎と濱田庄司や柳宗悦などの民芸 運動家を結びつけた。 孫三郎は濱田の作品に傾倒するようになり、昭和7 (1932)年には濱田の作陶展覧会が倉敷商工会議所で開催され、このとき初め て柳宗悦と会い、民芸論や民芸運動について詳細な話を聞き、柳たちを支援す るようになった。 そして柳、濱田、河井寛次郎、富本憲吉、バーナード・リ ーチ、芹沢銈(「金圭」)介などが、頻繁に倉敷を訪れるようになり、倉敷の民 芸熱が高まっていった。

 柳宗悦が日本民藝館設立の構想を初めて実際に語ったのは、大正15(1926) 年の高野山だったという。 それから10年の運動を経た昭和10年5月、柳が 野州地方のもと長屋門として用いられた石屋根の建物を、自分の家として移築 したのを、孫三郎が見に来た。 卓を囲んだ話が民芸に及ぶと、孫三郎は「十 万円程度差し上げるから、貴方がたの仕事に使って頂きたいと思うが、凡そそ の半額を美術館の建設に当て、残りの半分で物品図書などを購入せられてはど うか」と言った。 これによって柳たちが永く希願してやまなかった日本民藝 館は実現することとなり、昭和11(1936)年10月14日駒場の日本民藝館は 開館式を迎える。

 用と美を両立する民芸の推進者に共鳴した孫三郎は、民芸作品を積極的に生 活に取り入れて、自らも身をもって普及の一翼を担った。 京都北白川の別邸 の庭が完成したさいには、民芸茶碗や手造りの水差しなどを使って茶会をした。  河井の蓋物に焼き芋を入れたり、濱田の大皿にカレーライスを盛って客に出す など、人を招いては使い方を示した。

 大学・高等教育の地方化ともいえる倉敷日曜講演会は倉敷の民衆を、倉敷労 働科学研究所は倉敷紡績の工場労働者を、大原農業研究所は倉敷の農民を、岡 山孤児院支援はまさに生活難のあおりを受けた民衆の子供を見据えての支援で あった。 民芸運動の支援も含め、多岐にわたる孫三郎の社会文化貢献事業の 根底には、民衆重視の姿勢があったのである。

 柳宗悦は、軍国主義や権威主義を嫌い、日本の朝鮮統治にも紙上に異論を発 表するなど、信念を実践する行動力と反骨精神を持っていた。 孫三郎もまた、 子息總一郎が、「反抗の生涯だと自らもよくいって」いた、「多くの事業への意 欲は、一種の反抗的精神に根差し、あるいはそれにささえられたものがまれで なく、単なる理想主義的理解だけでは解釈しがたいものが多々その中にあ」り、 「何か決意する時は、いつも、何らかの感情的な反発を動機とするのが常であ った」と述懐しているという。 反抗心、迎合しない態度という特徴で、両者 は共通し、孫三郎が民芸運動に共鳴して、多大な応援をしたと考えられると、 兼田麗子さんは書いている。