「戦争の時代と大学」展の冊子から2016/04/17 07:16

 慶應大阪シティキャンパスで開催された「戦争の時代と大学―「慶應義塾と 戦争」アーカイブ・プロジェクト収集資料―」展の冊子を見てみよう。 展覧 会は、1. 戦時のキャンパスと塾生、2. 慶應義塾における学徒出陣、3. 戦争を 伝える「モノ」、4. 銃後のキャンパスと塾生、5. 占領下のキャンパス、6. 戦 争と大阪の塾員、7. 慶應義塾における継承の試み、という構成になっている。

 1. に、「解剖学教科書」(上原龍男)を開いた写真がある。 昭和14年頃使 用 上原登志江氏寄贈(2011年) 昭和17年9月医学部繰上卒業の上原龍男 が在学中に使用した教科書、岡嶋敬治著『解剖学IV』。 色鉛筆も用いた几帳 面な書き込みがあり、挿入紙には女性の顔の落書きも見られるという。 上原 は卒業後医学部助手に採用されるも、海軍軍医となり、18年10月22日伊号 一八二潜水艦軍医としてニューヘブリディーズ諸島方面で戦死。 兄良春は昭 和15年医学部卒で20年9月24日、ビルマで戦病死。 弟良司は昭和18年経 済学部1年時に学徒出陣、20年5月11日陸軍の航空特攻に出撃、沖縄方面で 戦死。 この一家は、慶應義塾出身の3人の男子を全員戦争で失ったのである。

 2. に、「出陣塾生壮行のクラス会」の写真がある。 昭和18年10月13日  須藤忠保氏提供(2013年) 昭和17年入学の経済学部予科I組の壮行会。 肩 から日章旗を斜めに巻いているのが、この時陸海軍に入隊予定の者。 浪人な どで満20歳以上の者だけが入隊した。 物資不足の中だが、この日は特別に すき焼きと菊正宗が用意されたという。 他の者も翌年には入隊を迎えた。  (馬場のところにも、まったく同じような昭和39年卒経済学部U組のクラス 会の写真があって、感慨深かった。もちろん日章旗を斜めに巻いた者はいない。)

 3.  戦争を伝える「モノ」。 「千人針」(八十島信之介) 昭和13年頃 八 十島信行氏寄贈(2013年) 八十島は昭和13年医学部卒。 陸軍軍医として ノモンハン事件への従軍等を経験。 この千人針は、八十島が入隊する際に贈 られたもので、「千里を走り、千里を帰る」といわれ縁起が良いといわれた虎を 象ったものなど手の込んだつくり。 縫い付けられた硬貨は5銭=死線を越え る、10銭=苦戦を越えるを意味する。 八十島は復員後、法医学者となり、昭 和24年の下山事件で監察医として自殺説を唱え、東大の他殺説と対立したこ とで有名。 平成2年歿。

 「海軍神風特別攻撃隊筑波隊員の寄書」(黒崎英之助) 昭和20年4月頃 木 名瀬信也氏寄贈(2016年) 飛行機による特攻は、昭和19年10月から採用 され、学徒兵や、それよりも若年者が志願した「予科練」の出身者などを速成 で飛行機搭乗員に仕立て、大量に投入した。 この寄書は茨城県の筑波航空隊 に、昭和20年2月初旬に編成された「筑波隊」の隊員による署名。 寄贈者 である、生き残った元隊員の木名瀬(文理科大(現筑波大)卒)が、戦後黒崎 の母を訪ねた際、託されたもの。 黒崎は経済学部1年で学徒出陣、20年5 月14日鹿児島県鹿屋基地から零戦で出撃し戦死。 この寄書に署名している 18名のうち17名は戦死している。 木名瀬は、平成27年歿。 寄書を見る と、「不惜身命 黒崎英之助」のほか、「死即生」「面白吾一生」「望」「童心」「尊 く嬉しく悲しき人生」「一場の夢」「葉隠武士」「死生朗々」「皇國護持」「莫妄想」 「必死在生」「爆戰」などと書いて署名している。

 「飛行服姿の塾生」(石川忠雄)の写真(昭和20年頃) 加藤利子氏提供(2014 年) 昭和52年~平成5年に塾長を務めた石川は、慶應の商業学校(夜間) から高等部へ進学、昭和17年経済学部に編入学した異色の学歴で、学部2年 で学徒出陣。 陸軍の第2期特別操縦見習士官(陸軍の学徒出身パイロット速 成課程、特操2期)を志願、特攻訓練中に終戦を迎えた。

 特別出品「思索を書き留めた手帳」(上原良司) 昭和19年6月~20年5 月(19年11月19日条) 上原清子氏蔵  上記1.の「解剖学教科書」の弟 上原良司は、経済学部1年で学徒出陣、陸軍の特操2期として飛行機操縦訓練 を受け、20年5月11日、特攻出撃し戦死。 この手帳は訓練中に思索を書き 留めたノートで、「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます」という 一節で有名な彼の出撃直前の遺書の原型が記されている。 その遺稿は、『きけ わだつみのこえ』(昭和24年初版)に、本文と序章の二か所で掲載されている という。