ユニテリアンと福沢諭吉、慶應義塾[昔、書いた福沢213]2020/02/13 07:21

      ユニテリアンの牧師ナップと慶應義塾大学部の開設

                         <小人閑居日記 2005.4.14.>

 3月26日交詢社で開かれた福澤諭吉協会の土曜セミナーで、土屋博政慶應 義塾大学教授(英米宗教思想史専攻)の「ユニテリアン主義と独立自尊」とい う講演を聴いた。  明治20(1887)年、アーサー・メイ・ナップというハーバード大学を卒業 したアメリカ・ユニテリアン協会の牧師が、日本の宗教事情の視察に派遣され ることになって、留学中の福沢諭吉の長男一太郎を自宅に招き、およそ二か月 にわたって日本事情についての説明を聴いた。 ナップが妻子と共に来日する と、福沢は好意的に扱い、慶應義塾教師という名目で東京市中に居を定めさせ たり、交詢社でユニテリアリズムについて講演させたりした。

 ナップが明治22(1889)年5月一時帰米した際、福沢はハーバード大学長 エリオットへの親書を託し、翌年開設を目指していた慶應義塾大学部の主任教 師三名を同大学の卒業生の中から選任することをナップに委任した旨を記し、 協力を要請した。 その結果、この年秋、ナップは理財科ドロッパーズ、法律 科ウイグモア、文学科リスカム(彼はブラウン大学出身)の三教師夫妻と、本 格的な布教をするためのユニテリアン宣教師マコーリィを伴って再度来日した。  三人の教師は明治23(1890)年1月、それぞれ慶應義塾大学部各科の主任教 師に就任した。

        ユニテリアンについて<小人閑居日記 2005.4.15.>

 きのう書いた福沢諭吉に関係した慶應義塾大学部開設にからんだ話から「ユ ニテリアン」という言葉を知った私は、ずっとキリスト教の一派ぐらいに思っ ていた。 一昨年、クリスチャンであるヘボン研究の先生と横浜散歩をした時、 「ユニテリアン」について尋ねると、「あれはキリスト教ではありません」と吐 き捨てるように言われた。 邪宗に対するような響きがあった。

 土屋博政さんの講演によれば、「ユニテリアン」は神を「ユニティー(単一)」 のものと考え、キリスト教の父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる 神のいわゆる三位一体を信じない。 イエス・キリストは普通の人間であると、 合理的に解釈する。 それは自然科学の発達も背景にして、アメリカで自由主 義(リベラリズム)の運動としての宗教、ユニテリアン主義として発達する。  米国ユニテリアン協会(1825年)やエマソンらの自由宗教協会などが創設され る。 (『慶應義塾百年史』中巻(前)の大学部開設の章によると、ハーバード 大学は「ユニテリアンの本拠」とさえいわれていた。) 寛容の精神を持って信 仰の自由を唱え、「よき隣人」としての実践活動を重視する。 福沢は、正統派 キリスト教宣教師の押し付けがましいところを嫌い、科学的、合理的で、自由 なユニテリアンに、好意を持ったようだ。

     福沢とユニテリアンの関係の変化<小人閑居日記 2005.4.16.>

 ナップは三人の教師と宣教師 マコーレー(土屋博政さんの表記はマコーリ ィ)を伴ってきた明治23(1890)年、11月になって病を得て帰国、翌年から 6年ほどフォールリバーでユニテリアンの教区牧師を務めた後、明治30(1897) 年に再来日した。 この頃、福沢は慶應義塾の経営維持問題に関連して、大学 と学校の組織変更を考えていた。 相談を受けたナップは、慶應義塾がハーバ ード大学と提携して、国際的な性格を持ち、自分とその指名する他のアメリカ 人が評議員会に入る案を示し、会談時は福沢も喜んだという。 しかし、この 計画は進まなかった。 この時ナップは何の代表でもなく(権限もなく)、ユニ テリアンのミッションの代表はマコーレーだったからである。 ナップとマコ ーレーの関係も悪かったようだ。

 これより前、明治27(1894)年3月27日の時事新報の記事についての福沢 (長男一太郎と連名)のマコーレー宛の28日付けの英文手紙が残っている。  その手紙や関連の追い記事を読むと、ユニテリアンと福沢の関係は、ナップが 三人の教師を連れてきた頃とくらべて、すきま風が吹き、だいぶ希薄化してい たことがわかるという。